動かせないお金があった?ヤップ島の巨大な石のお金
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ミクロネシア連邦のヤップ島では、石を円盤の形に削った「ライ」がお金として使われてきました。大きいものは直径3.6メートル、重さは約4トンあります。
運べないほど大きな石は動かさず、持ち主だけを入れ替えます。この仕組みは1903年に島を訪れた人類学者が書き留め、のちに経済学者ミルトン・フリードマンが「お金の正体」を語る例として取り上げました。その歩みを時代順にたどります。
伝説と航海の時代(19世紀前半まで)
ライの始まりは、はっきりしていません。ヤップ島には、500〜600年前の伝説が残っています。トミル島のアナグマンが神のお告げを受け、7人の仲間と船出して石を見つけたという話です。考古学の調査では、パラオの石切り場の一つで切り出しが始まったのは1700年ごろです。島の人々が鉄の道具を手に入れた後とみられています。
ライの石は、ヤップ島では採れない結晶質の石灰岩です。人々は南に約400キロ離れたパラオの島々に渡り、石を削り出しました。カナダ銀行博物館によると、一つの石切り場で一度に100人ほどが働いた可能性があります。
削った石は、カヌーやいかだに載せて外洋を運びます。ヤップ観光局によると、天候に恵まれても5日ほどかかる危険な航海で、命を落とす人も多くいました。そのためライの値打ちは、大きさや美しさだけでなく、運んだときの苦労や犠牲者の有無でも決まりました。
小さな舟で運べる大きさには限りがあります。この時代のライは、直径2メートル・重さ2トンほどまでだったと考えられています。
外の世界の記録に、ライがはっきり現れるのは1843年です。イギリスの船長アンドリュー・チェインの航海日誌に、直径60センチほどの石のお金が書き残されました。
1871年、オキーフが持ち込んだ鉄の道具
1871年、アメリカから来た船長デイヴィッド・ディーン・オキーフがヤップ島にたどり着きます。オキーフは香港などから取り寄せた道具と大きな船を使い、パラオから石を運ぶ商売を始めました。
見返りに受け取ったのは、乾燥させたココナツの果肉(コプラ)とナマコです。オキーフはこれを中国で売り、大きな利益を上げました。島の人々にとっては、命がけの航海をせずに石が手に入る取引でした。
外国製の道具と船のおかげで、石は短い期間で大量に、しかも大きく作れるようになります。直径4メートル近いライが現れたのは、この後のことです。
ところが、こうして運ばれたライは島で低く見られました。苦労の跡も、誰が運んだかという来歴もなかったからです。石の数だけが増えて一枚あたりの値打ちが下がる、インフレのような現象が起きました。オキーフは1901年、航海の途中で亡くなります。その生涯は1954年、バート・ランカスター主演のアメリカ映画『His Majesty O'Keefe』になりました。
1903年、ファーネスが見た「動かないお金」
1903年、アメリカの人類学者ウィリアム・ヘンリー・ファーネス3世がヤップ島を訪れました。島に通う船は、ドイツの商社の小さな汽船が年に5回ほどという時代です。ファーネスは見聞きしたことを、1910年の著書『石貨の島』にまとめます。
ファーネスによると、ライの値打ちは直径で決まり、親指と人差し指を広げた長さで測りました。そして、運べないほど大きなライで取引をしても、新しい持ち主は「自分のものになった」と認められるだけで満足します。石には印さえ付けず、元の持ち主の家の前に置いたままでした。
本の中で特に有名なのが、海の底のライの話です。ある家の先祖が大きなライを手に入れ、いかだで引いて帰る途中に嵐に遭いました。命を守るためにいかだを切り離し、石は海に沈みます。
帰った人々は、石が立派な品だった点と、失ったのは持ち主の落ち度でない点を証言しました。島の人々はそれを認め、その家は2〜3世代にわたって、誰も見たことのない石の持ち主として裕福だと見なされ続けました。ファーネスは、この石の購買力は家の脇に立てかけてあるのと同じように有効だ、と書いています。
ドイツの役人が描いた黒い十字
ヤップ島は長くスペインの植民地でしたが、1899年にドイツへ売り渡されます。ファーネスは、このころの役人の苦労も書き留めました。
島には車輪の付いた乗り物がなく、集落を結ぶ小道が交通のすべてでした。ドイツの役所は、傷んだ小道を直すよう各地区の首長に何度も命じます。しかし、はだしで歩くには今のままで十分だったため、命令は聞き流されました。
役所は罰金を科すと決めました。ところが首長たちは、銀貨も金貨も持っていません。ライで払わせようにも、運ぶには島の人口の半分が必要で、役所の建物にも入りきりません。
そこで役人は各集落を回り、値打ちのあるライに黒いペンキで十字の印を付けました。「この石は政府が差し押さえた」という意味です。石は一歩も動いていませんが、効果はすぐに表れました。人々は島の端から端まで小道を直し、役人が十字を消すと、財産は元の持ち主に戻りました。
1991年、経済学者が見つけた教訓
この2つの話に目を留めたのが、ノーベル経済学賞を受けたミルトン・フリードマンです。1991年、フリードマンはファーネスの本をもとに、論文「石貨の島」を書きました。
フリードマンは、ヤップ島の出来事が1932年の出来事と「不気味なほど似ている」と述べています。この年、ニューヨーク連邦準備銀行は地下金庫の金に「フランス銀行のもの」という印を付け、それで金をフランス銀行に移しました。金そのものは、金庫から一歩も出ていません。
海の底の石も印を付けられた金も、動いたのは「誰のものか」という記録だけです。そして、それを人々が信じる気持ちです。お金を支えているのは素材ではなく、みんなが共有する了解です。フリードマンはこの点を、遠い島の話で示しました。近年は、記録を皆で共有するという点から、ライは暗号資産と比べて語られることもあります。
いま残っているもの
20世紀に入ると、新しいライは作られなくなりました。カナダ銀行博物館によると、1960年代半ばからはライを島の外へ持ち出すことも認められていません。同館が持つ直径2メートル・重さ1,800キロのライは、それより前の1965年に島を離れました。1975年に同館が買い取ったものです。
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1700年ごろ | パラオの石切り場で切り出しが始まったとみられる |
| 1843年 | イギリス船の航海日誌にライの記録 |
| 1871年 | オキーフが来島し、外国製の道具と船で石を運び始める |
| 1899年 | スペインがヤップ島をドイツに売り渡す |
| 1903年 | ファーネスが来島。1910年に『石貨の島』を出版 |
| 1914年 | 日本軍がヤップ島を占領。1919年から日本の委任統治領に |
| 1960年代半ば | ライの島外への持ち出しが認められなくなる |
| 1986年 | ヤップ州としてミクロネシア連邦の一部に |
| 1991年 | フリードマンが論文「石貨の島」を発表 |
島内には、大きなライが今も約6,000個あるとされます。カナダ銀行博物館は現存を約7,000個、もとは約1万3,000個あったと見積もっています。多くは村ごとの「石貨銀行」と呼ばれる場所に並び、最大のライは北部のルムン島にあります。
日々の買い物に使われるのは米ドルです。それでもライは、結婚の際の贈り物や土地の取引といった大切な場面で、今も持ち主を替えています。お金の歴史や働きを図で順に追うなら、子ども向けのお金の図鑑が入り口として分かりやすい話です。
海に沈んだ石が財産であり続けたように、私たちの紙幣や預金の数字も、みんなが信じている間だけお金として働きます。財布の1万円札を見たら、ヤップ島の石を思い出してみてください。
参考にした資料
- Bank of Canada Museum — Rai: big money
- Wikipedia — Rai stones
- Yap Visitors Bureau — Yap Rai Stone Money, Yapese Culture & Traditions
- Project Gutenberg — William Henry Furness, The Island of Stone Money: Uap of the Carolines(1910)
- Habele Institute — Milton Friedman, The Island of Stone Money(1991)の要旨
- Wikipedia — Yap(統治の歴史)
- Wikipedia — David Dean O'Keefe