雑学

きらびやかな仮面が身分を消す、ベネチアの祭り

2026年7月公開 · 2026年10月更新 · 読了7分
きらびやかな仮面が身分を消す、ベネチアの祭り

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ベネチアの仮面カーニバルは、肉断ちの季節に入る前に街じゅうで楽しむ祭りで、仮面は身分の違いを見えなくする道具でした。それでも「誰もが完全に対等になった」わけではありません。仮面には形ごとの決まりがあり、共和国は何度も法律で縛りました。

祭りは1797年に一度消え、1979年に復活しています。この記事では、記録に残る11世紀から今の祭りまでを、年と人物を軸に順にたどります。

11〜13世紀:伝説の1162年と、記録の1094年・1296年

カーニバルは冬の終わりに開かれ、告解火曜日で幕を閉じます。翌日の灰の水曜日から、復活祭に向けた約40日の節制期間、四旬節が始まるからです。カーニバルという語は、ラテン語で「肉を取り除く」を意味するcarnem levareから来たという説が有力です。

起源として有名なのは、1162年の話です。ベネチア共和国がアクイレイア総大司教ウルリヒ2世との戦いに勝ち、それを祝って人々がサンマルコ広場で踊ったとされます。ただしこれは伝説で、確かな記録ではありません。

文書に残る最初の「カーニバル」という語は、それより古い1094年のものです。ドージェ(元首)ヴィターレ・ファリエルの文書に、公の娯楽についての記述として現れます。祭りが公式の行事になった年は1296年です。共和国の元老院が、四旬節の前日を祝日と定めました。

13〜15世紀:仮面への規制と職人の組合

仮面の記録も13世紀から現れます。最初に目立つのは規制です。1268年、共和国の大評議会は、仮面をつけたまま「香りの卵」を投げることを罪としました。ばら水などの香水を詰めた卵の殻で、若者が友人や気になる女性に向けて投げていたものです。

1339年の法は、さらに踏み込みます。下品な仮装と、仮面のまま修道院を訪ねることを禁じました。顔を塗ることや付けひげ、かつらも禁止です。同じ年の2月22日からは、夜に仮面で出歩くことも禁止されています。顔が見えなければ、悪事を働いても誰の仕業か分かりません。匿名の自由と、その危うさは、最初から背中合わせでした。

それでも仮面は街の産業として育ちます。1436年4月10日付で、仮面職人(マスケラーリ)の同業組合の規約が残っています。職人は画家の仲間に近い扱いで、看板描きの手も借りながら、石こうなどで作った型に顔を描き込みました。

16〜18世紀:仮面の季節と、バウタとモレッタ

16世紀半ばの祭りでは、トルコ人の若い軽業師が、船から張った長い綱を渡ってサンマルコの鐘楼の鐘室までのぼりました。いまの祭りの名物「天使の飛行」は、この見せ物が始まりです。

祭りが最も華やかだったのは18世紀です。仮面をつけてよいのは、12月26日の聖ステファノの日から、告解火曜日の真夜中まで。キリストの昇天祭の日や、10月5日からクリスマスまでも認められていたので、1年のかなりの部分を仮面で過ごせました。ニューオーリンズ美術館は、18世紀のカーニバルが1年の半分近く続いたと紹介しています。

代表的な仮面は2つありました。白いバウタは、顎が前に張り出した形で、外さずに食べたり飲んだり話したりできます。黒いマントの「タバッロ」と三角帽子を合わせると、顔も髪型も体つきも隠れました。18世紀には政府が決まりを定めた仮面になり、政治の決定にかかわる場では、市民(男性)が対等な立場で匿名になるため着用が義務づけられました。仮面と一緒に武器を持つことは、法律で禁じられています。

女性のモレッタは、黒いビロードの小さな楕円形の仮面です。口の穴がなく、裏のボタンを歯でくわえて留めるため、つけている間は話せません。「物言わぬ召使い」とも呼ばれました。画家ピエトロ・ロンギは1751年の作品『サイ』に、モレッタをつけた女性を描いています。ところが、この仮面は1760年ごろには使われなくなりました。

この時代のカーニバルを語るとき、よく名前が挙がるのがジャコモ・カサノヴァです。華やかな宴や恋の騒動で知られ、18世紀ベネチアの奔放な祭りの空気を象徴する人物とされています。

仮面は、女性が付き添いなしで出歩くことや、物乞いが素性を隠すことも可能にしました。いっぽうでバウタは、貴族や上層の市民のものとされていました。仮面は身分をぼかす道具であり、同時に身分ごとの決まりに縛られてもいたのです。

1797年の消滅から、1979年の復活まで

祭りが途切れたのは1797年です。この年、1,000年以上続いたベネチア共和国が倒れました。街はフランス、続いてオーストリアの支配を受けます。皇帝フランツ2世は祭りを全面的に禁じ、仮面の使用も厳しく取り締まりました。人々が仮面に紛れて反乱や騒ぎを起こすことを恐れたためです。ラグーナのブラーノ島やムラーノ島だけが、小さな規模で祭りを続けました。19世紀には少しずつ戻りますが、短い期間の、主に内輪の催しにとどまります。

本格的に復活したのは1979年、ほぼ2世紀ぶりです。市民の団体が動き、ベネチア市やフェニーチェ劇場、ビエンナーレなどが資金や運営を支えました。1999年には、10世紀にさかのぼる「マリアの祭り」も演出家ブルーノ・トージの手で再び始まります。海賊にさらわれた12人の娘を、元首が取り戻した出来事にちなむ祭りです。いまでは毎年約300万人がカーニバルに訪れるといわれます。

ベネチアのカーニバル年表(Wikipedia・公式サイトなどをもとに作成)
年出来事
1094年元首ファリエルの文書に「カーニバル」の語が初めて現れる
1162年アクイレイアとの戦勝を祝う踊りが起源という伝説
1268年仮面で香りの卵を投げることを罪とする
1296年元老院が四旬節の前日を祝日と定める
1339年下品な仮装、仮面での修道院訪問などを禁じる
1436年仮面職人の組合の規約(4月10日付)
16世紀半ばトルコ人の軽業師が鐘楼へ綱渡り
1751年ロンギがモレッタの女性を描く(1760年ごろモレッタは廃れる)
1797年共和国が倒れ、祭りと仮面が禁じられる
1979年市民団体の動きで、ほぼ2世紀ぶりに復活
1999年マリアの祭りが復活

いま残っているもの

復活後の祭りでよく見かける仮面には、昔の決まりとは別の顔もあります。顔全体を覆う白い「ヴォルト」は、いまのベネチアの仮面を代表する形ですが、外さないと食べることも飲むこともできません。長いくちばしの「ペスト医師」の仮面は、もとは17世紀のフランスの医師シャルル・ド・ロルムが、ペスト患者の診療で使った装いです。カーニバルの仮面として広まったのは、近年のことです。

祭りの日程は、復活祭の日付に合わせて毎年動きます。公式サイトによると、2027年は1月23日から2月9日までです。最終日の2月9日が告解火曜日で、翌日の灰の水曜日から四旬節に入ります。

18世紀の街の空気は、ロンギやティエポロの絵に多く残っています。バウタの人々が集う場面を絵で見比べたいなら、ベネチアの美術と歴史を写真で案内する本が役に立ちます。共和国1,000年の流れを通して知るなら、歴史物語の長編も入り口になります。

一枚の仮面は、身分の壁を壊しはしませんでした。それでも、しばらくのあいだ見えなくすることはできました。ベネチアの仮面を見かけたら、顎の張り出しや口の穴を確かめてみてください。食べられる形か、話せない形か。そこに当時の決まりごとが残っています。

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