雑学

タージ・マハルはお墓だった?王が愛した妃への贈り物

2026年7月公開 · 2026年10月更新 · 読了7分
タージ・マハルはお墓だった?王が愛した妃への贈り物

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インドのタージ・マハルは、宮殿ではなくお墓です。ムガル帝国の皇帝シャー・ジャハーンが、1631年に亡くなった王妃ムムターズ・マハルのために建てた霊廟です。

工事には2万人を超える職人が集められ、霊廟の本体が仕上がるまでに16年かかりました。この記事では、王妃の死から現在までを年代順にたどります。

1631年、王妃の死から始まった

王妃ムムターズ・マハルは、1593年にアグラで生まれました。本名はアルジュマンド・バーヌー・ベーグムです。1612年に、のちの皇帝となるフッラム王子と結婚しました。

ムムターズ・マハルは結婚後に贈られた称号で、「宮殿の選ばれし者」などと訳されます。王子は1628年に即位し、シャー・ジャハーン(「世界の王」の意味)と名乗りました。王妃は遠征にも同行し、2人の間には14人の子どもが生まれました。そのうち7人は、生まれてすぐか幼いうちに亡くなっています。

1631年6月17日、王妃は遠征先のブルハーンプルで、14人目の子どもとなる娘ガウハル・アラ・ベーグムを産んだ直後に亡くなりました。38歳でした。遺体はいったん現地のザイナーバードという庭園に仮に葬られ、同じ年の12月にアグラへ移されます。悲しみに沈んだ皇帝は、ヤムナー川のほとりに、王妃のための霊廟を建てることを決めました。

1632年、2万人の工事が始まる

工事は1632年に始まりました。設計の中心にいたのは、宮廷建築家ウスタード・アフマド・ラーホーリーです。ドームの設計にはオスマン帝国出身のイスマーイール・アフェンディ、建築にはペルシャのウスタード・イーサーなど、国をまたいだ専門家が名を連ねています。

職人はインド各地だけでなく、ペルシャやオスマン帝国、中央アジアのブハラなどからも集められました。石工、彫刻師、文字を刻む書家などを合わせて、2万人を超えたと伝えられます。資材の運搬には約1000頭の象が使われ、長さ約15キロメートルの土の坂道が築かれました。大理石は、牛や象が引く専用の荷車で運ばれています。

白い大理石の表面には、色の付いた石を花の形にはめ込む装飾が施されています。使われた宝石や貴石は28種類です。トルコ石はチベットから、ラピスラズリはアフガニスタンから運ばれました。石を彫り込んで別の石をはめる技法のため、絵の具と違って、屋外で400年近く色を保ってきました。

工事のさなかの1643年2月6日、王妃の死から12年目の命日には、霊廟で最初の追悼の式典が開かれています。霊廟の本体は1648年に完成し、庭園や周りの建物を含めた全体は1653年ごろに整ったとされます。着工から20年あまりの大工事でした。費用は当時の額で約3200万ルピーと見積もられ、2015年の価値に直すと約8億ドルにあたるという試算もあります。

タージ・マハルの年表(Wikipedia・HISTORYなどをもとに作成)
年出来事
1612年フッラム王子とアルジュマンド・バーヌー・ベーグムが結婚
1628年王子が即位し、シャー・ジャハーンと名乗る
1631年王妃ムムターズ・マハルがブルハーンプルで死去
1632年霊廟の工事が始まる
1648年霊廟の本体が完成
1653年ごろ庭園などを含む全体が完成
1658年息子アウラングゼーブが帝位を奪い、皇帝をアグラ城に幽閉
1666年シャー・ジャハーンが死去し、王妃の隣に葬られる
1983年ユネスコの世界遺産に登録

左右対称の設計と、外へ傾く4本の塔

タージ・マハルは、左右対称を徹底した設計で知られます。敷地は約17ヘクタールで、東京ドームおよそ3.6個分です。地面から中央のドームの頂までは約73メートルあり、周りを4つの小さなドームが囲みます。

四隅には、高さ40メートルを超える塔(ミナレット)が立っています。この4本は、まっすぐに見えて、わずかに外側へ傾けて建てられました。万一倒れたとき、中央の霊廟の上に崩れ落ちないための備えだと説明されています。

中央の部屋に置かれた2つの棺は、参拝のための飾りです。本当の棺はその真下、地下の部屋に納められています。白い大理石は、日の光の加減によって色が変わって見えるといわれます。建物の前には水路で4つに区切られた庭園が広がり、細長い池が白い姿を映します。

1658年、幽閉された皇帝

シャー・ジャハーンの晩年は、穏やかではありませんでした。1658年、息子アウラングゼーブに帝位を奪われ、近くのアグラ城に閉じ込められます。皇帝が晩年を過ごした城の塔からは、ヤムナー川越しにタージ・マハルを眺めることができました。8年にわたる幽閉の間、皇帝は王妃の霊廟を遠くから見て暮らしたことになります。1666年に亡くなると、遺体は王妃の隣に葬られました。左右対称の霊廟の中で、皇帝の棺だけが中心から外れた位置にあります。

皇帝が川の対岸に、自分のための「黒いタージ・マハル」を建てるつもりだった、という伝説もあります。この話のもとは、1665年にアグラを訪れたフランスの商人タヴェルニエの記録です。1990年代に対岸の庭園跡メヘターブ・バーグを発掘したところ、黒い大理石の跡とされていた物は、変色した白い石でした。2006年には、この庭園にあった池の一部が復元されました。水面には、対岸の白い霊廟が黒っぽい影となって映ることが確かめられています。

「同じ物を二度と造らせないため、皇帝が職人の手を切り落とした」という話もよく語られます。これも俗説で、裏づけとなる史料は見つかっていません。インドの作家マニムグダ・シャルマは、職人たちがタージ・マハルの後にデリーの新しい都シャージャハーナーバードの建設に移ったことを挙げ、手を失っていたら不可能だったと指摘しています。

20世紀以降、白さを守る取り組み

1983年、タージ・マハルはユネスコの世界遺産に登録されました。登録の際には「インドにおけるイスラーム芸術の至宝」と評されています。同じ1983年には、皇帝が幽閉されたアグラ城も世界遺産になりました。アクバル帝が赤い砂岩で築いた城に、シャー・ジャハーンが白い大理石の建物を加えています。2022年度には、約500万人が訪れています。

一方で、20世紀の後半から、大気の汚れで白い大理石が黄ばみ始めました。周りの工場や車の排気、酸性雨が原因に挙げられています。近くの都市マトゥラーにある石油精製所の排煙や、汚れたヤムナー川も影響していると指摘されてきました。1990年代後半には、インドの最高裁判所の判断を受けて、周辺約1万400平方キロメートルが「タージ台形区域」に指定されました。区域内の工場には、厳しい排出の基準が課されています。

表面の汚れは、粘土を塗って乾かし、汚れごと取り除く「泥パック」で落としています。400年近く前の白さは、今も人の手で保たれています。

職人の出身地の広がりや、ドームと塔の配置は、文章より写真で見るほうが分かりやすい話です。世界の名建築と並べて見比べるなら、世界遺産の図鑑が役に立ちます。

いま残っているもの

タージ・マハルは、1631年に亡くなった王妃のために、2万人の職人が16年かけて本体を造った霊廟です。中央の棺は飾りで、本当の墓は地下にあり、晩年に幽閉された皇帝も、いまは王妃の隣で眠っています。

次に写真を見るときは、四隅の塔に注目してください。外へわずかに傾いた4本の塔が、王妃の霊廟を守る形で立っています。

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