雑学

姫路城が白鷺城と呼ばれる理由を知っていますか

2026年7月公開 · 2026年10月更新 · 読了7分
姫路城が白鷺城と呼ばれる理由を知っていますか

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姫路城が白鷺城と呼ばれる理由として最もよく知られているのは、白漆喰で塗り固めた真っ白な姿を、翼を広げたシラサギに見立てたという説です。読み方は「しらさぎじょう」とも「はくろじょう」とも言われます。

この白さは、見た目のために選ばれた色ではありません。城を火から守るための実用的な工夫でした。1346年の築城から2015年の平成の修理まで、白い城がどうやって670年近くを生き延びたのかを、時代順にたどります。

姫山の砦から秀吉の三重天守へ(1333〜1580年)

姫路城が建つのは、姫路の町の中心にある姫山という小高い丘です。1333年に赤松則村がこの丘に砦を構え、1346年には赤松貞範が本格的な城を築きました。これが姫路城の始まりとされています。

その後、城の主は何度も替わります。1441年の嘉吉の乱のあとは山名持豊が治め、1467年の応仁の乱で赤松政則が取り戻しました。やがて黒田家が、主家の小寺氏に代わって城を預かるようになります。

転機は1580年です。黒田孝高(官兵衛)が城を羽柴秀吉に譲り、秀吉は三重の天守を建てて翌年に完成させました。中国地方を攻める拠点として、姫山の城は大きく姿を変えます。

白鷺城という名前にも、この丘が関わっています。姫山は桜が多く咲いたことから「桜木山」とも呼ばれ、それが転じて「鷺山」とも言われました。鷺山に建つ城だから白鷺城、という説です。ほかに、サギの仲間が多く住んでいたという説や、黒い壁から「烏城」と呼ばれた岡山城と対比したという説もあります。

池田輝政が白い大天守を築く(1600〜1618年)

1600年の関ヶ原の戦いのあと、城主になったのは池田輝政です。徳川家康の次女を妻に迎え、家康の信頼が厚い大名でした。輝政は翌1601年から大改修に取りかかり、1609年に五重六階地下一階の大天守を完成させます。

白く見えるのは、表面を覆う漆喰です。姫路城は外壁だけでなく、屋根瓦の継ぎ目にまで漆喰を塗り込めた「白漆喰総塗籠造」で造られています。

漆喰は石灰を主な原料とする、火に強い材料です。木造の城にとって最大の敵は、火矢や失火による炎でした。

城全体を燃えにくい膜で包むこの工法は、美しさと防火を一度に果たす答えだったのです。

天守の中心には、東西2本の大柱が地下から6階の床下まで貫いています。根元の直径は95センチ、長さは24.6メートル。この2本が、高さ31.5メートルの大天守を支えてきました。高さ14.85メートルの石垣と標高45.6メートルの姫山を合わせると、天守の最上部は海抜92メートルに達します。

守りの仕掛けも念入りです。壁には鉄砲や弓を放つための「狭間」という穴が開けられ、その数は日本の城で最も多いとされます。

1617年には本多忠政が城主となり、三の丸などを整えます。翌1618年、忠政の子の忠刻に嫁いだ千姫の化粧料(嫁入りの費用)をもとに西の丸が整備されました。千姫は家康の孫娘です。ここで、今に残る城の形がほぼそろいました。

城主が替わり続けた江戸、売りに出された明治(1639〜1879年)

江戸時代の姫路城は、城主の入れ替わりが激しい城でした。本多家が去った1639年から1749年までの110年間に、松平・榊原・本多の各家が入れ替わりで城主を務めました。1749年に前橋から酒井忠恭が移ってきて、ようやく酒井家が明治まで治めます。

明治に入ると、城は一転して不要なものになります。1869年の版籍奉還で国のものとなり、1872年からは陸軍省が管理しました。明治の初めには城が競売にかけられ、姫路の米田町の人物が23円50銭で落札したと伝わります。1874年に買い受けたとする新聞記事もあります。

それでも城は壊されませんでした。落札者は瓦や鉄を売る目的だったとも言われますが、瓦は大きく重くて民家には使えず、取り壊す費用もかさみます。結局、城はそのまま残りました。

救ったのは一人の軍人です。1878年12月、陸軍の中村重遠大佐が、姫路城と名古屋城を「国内無比の名城」として保存するよう山縣有朋に願い出ました。翌1879年1月に保存が認められます。

空襲をくぐり抜け、昭和の大修理へ(1910〜1964年)

保存が決まっても、傷みは進みました。1910年7月から1911年7月にかけて、国が9万円を出して明治の大修理が行われます。1931年1月には大天守・小天守など8棟が国宝に指定されました。

1934年6月には豪雨で西の丸の渡櫓が石垣ごと崩れ、本格的な修理が始まります。しかし工事は、まもなく戦争で止まりました。

太平洋戦争中、白い城は爆撃機の目印になると心配されました。そこで黒く染めた網で城の主要な部分を覆い隠します。1945年7月3日の姫路空襲で城下の町は焼き尽くされました。大天守にも焼夷弾が当たりましたが、最上階の窓板を突き破ったあと不発に終わり、天守は燃えずに済みました。

戦後の1949年には修理の再開を国に求める団体が生まれ、1950年に工事が再開します。1951年には新しい法律のもとで国宝に指定し直されました。

「姫路城は築城当時のまま残っている」とよく言われますが、正確ではありません。1956年からは、大天守をまるごと解体する昭和の大修理が始まります。1958年までに天守を部材までばらし、傷んだ柱や梁を取り替えて組み直しました。内側が腐っていた西の大柱も新しい木に替えられています。足場には1万本を超えるヒノキの丸太が使われ、作業量は延べ25万日分を超えました。

工事は1964年に終わり、再公開された城には170万人を超える人が訪れました。部材に残っていた墨書きから、建てた当時のことも新しく分かっています。

世界遺産と平成の修理(1993〜2015年)

1993年12月11日、姫路城は奈良の法隆寺地域の仏教建造物とともに、日本で初めての世界文化遺産に登録されました。日本の世界遺産の第一号が、寺と城だったわけです。

ただ漆喰は、時間がたつと汚れて色が落ちます。昭和の大修理で白さを取り戻した壁も、2000年代の初めには再び灰色になっていました。

そこで2009年から2015年まで、大天守の保存修理が行われました。費用は6年間で24億円。壁は麻の繊維・石灰・海藻のりを混ぜた伝統的な材料で塗り直しています。屋根瓦はすべていったん外して点検し、8割を再び使いました。2015年に修理を終えた城は、塗りたての白さで再公開されています。

年表で見る白鷺城

姫路城のおもな出来事(姫路市の姫路城公式サイト・ウィキペディアなどから作成)
年出来事
1346年赤松貞範が姫山に城を築く
1580年黒田孝高が羽柴秀吉に城を譲る。翌年、三重の天守が完成
1609年池田輝政の大天守が完成
1618年千姫の化粧料で西の丸を整備
1879年中村重遠の願い出を受け、陸軍が保存を決める
1910〜1911年明治の大修理
1945年姫路空襲。大天守に当たった焼夷弾が不発
1956〜1964年昭和の大修理。大天守を解体して組み直す
1993年法隆寺とともに日本初の世界文化遺産に
2009〜2015年平成の修理。漆喰と屋根を直す

いま城内には、大天守・小天守と渡櫓の計8棟の国宝と、櫓・門・塀など74棟の重要文化財が残っています。天守だけでなく、門も塀もそろって残っている点が、姫路城の値打ちです。江戸時代以前の天守が残る12の城の中で、大天守は最大の規模を誇ります。

姫路城を訪ねたら、天守を見上げたあとで屋根瓦の継ぎ目に目を向けてみてください。白い線が一本ずつ丁寧に引かれています。入口近くには、昭和の大修理で取り外された西の大柱の古い材も展示されています。

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