8000体の兵馬俑は井戸掘りで偶然見つかった?
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兵馬俑は、学者の発掘ではなく、干ばつの村の井戸掘りで見つかりました。1974年3月29日、中国・陝西省の農民たちが、深さ3メートルほどの穴から陶器の破片を掘り当てたのが始まりです。
ただし、よく聞く「約8000体」は掘り出して並べた数ではありません。この記事では紀元前246年の墓づくりの始まりから、1974年の発見、いまも開けられていない墓までを年の順にたどります。
紀元前246年、13歳の王が墓づくりを始めた
兵馬俑は、秦の始皇帝の陵墓を守る「地下の軍隊」です。陵墓の工事は紀元前246年に始まりました。13歳の少年が父の跡を継いで秦王になった、すぐあとのことです。
秦王はその後、紀元前221年に中国を初めて統一し、始皇帝を名乗ります。亡くなったのは紀元前210年。墓づくりは、王になってから亡くなるまでの36年あまりにわたって続いたことになります。
工事の様子を書き残したのは、約100年後の歴史家、司馬遷です。『史記』には、全国から70万人あまりの人が送り込まれたとあります。墓の中には宮殿や珍しい宝を運び込み、水銀で川や海を表し、天井には天の星を描いた。そう記されています。
長いあいだ、この記述は誇張だと考えられてきました。ところが、墓の盛り土からは周りより高い濃度の水銀が見つかっています。この発見から、司馬遷の記述にも一定の根拠があると考える研究者が増えています。
型と手仕上げで作られた兵士たち
兵士の像は、一体ずつ彫刻家が彫ったものではありません。頭・腕・脚・胴を別々に作り、あとから継ぎ合わせて組み立てました。作ったのは、官営の工房の職人と地元の職人たちです。
脚の作り方は、当時の土管づくりとよく似ていたと考えられています。粘土の筒を作る技術を、そのまま人の脚に生かしたわけです。部品ごとに担当を分けて大量に作り、最後に組み立てる。今の工場の流れ作業に近い方法でした。
顔にも型が使われました。研究者は、基本となる顔の形を10種類ほど見分けています。それでも同じ顔が見つからないのは、組み立てたあとに粘土を盛り足し、目や眉・ひげを一体ずつ仕上げたからです。背丈は1.75メートルから約2メートルで、位の高い将校ほど大きく作られています。
持たされた武器は本物でした。青銅の剣や矛、弩(いしゆみ)の引き金など、4万点を超える武器が見つかっています。いちばん多いのは矢じりで、たいてい100本ずつの束で出てきます。
ロンドン大学(UCL)の研究チームは、この矢じりの成分を束ごとに調べました。束の中では成分がよくそろい、束が違うと少しずれる。そこから、小さな工房がそれぞれ一揃いを仕上げる、分担の決まった作り方が見えてきました。矛や戟(げき)には、作った年や監督した役人・工房・職人の名前まで刻まれています。2200年前の軍需品に、品質管理の記録が残っているのです。
1974年3月29日、干ばつの村の井戸掘り
それから2000年あまり、兵士たちは土の下で眠り続けます。目を覚まさせたのは、春の干ばつでした。
場所は、始皇帝の墓の盛り土から東へ約1.5キロ。水不足に困った村の楊志発さんと5人の兄弟、隣人の王普志さんが、村の南で井戸を掘り始めました。深さ3メートルほどで陶器のかけらに当たり、掘り進めると頭や腕、脚が次々に出てきます。そばには青銅の矢じりもありました。
村人の中には、寺の神様の像だと思って、線香を上げて拝んだ人もいたと伝えられます。知らせを受けた臨潼県の文化館も、現場を保護して像を修復するだけで、上には報告していませんでした。
流れを変えたのは、別の取材で文化館を訪れた新華社の記者、藺安穏(りん・あんおん)です。像がただの焼き物ではないと見抜いて記事を書き、それが政府の指導部の目に留まりました。副総理の李先念が保護を命じ、同じ年の7月、袁仲一を隊長とする考古学の調査隊が発掘を始めます。
1号坑から3号坑へ、広がる発掘
当初は1週間ほどの調査の予定でした。ところが井戸の場所から掘り広げると、坑の縁は東西230メートル・南北62メートルにも及びます。これが1号坑です。中国の通信社がこの発見を伝えたのは、1975年7月のことでした。
1976年には、北側で2号坑と3号坑が相次いで見つかります。2号坑は騎兵や歩兵、戦車の陣で、3号坑は軍の司令部と考えられています。1号坑の上には保護のための大きな建物が建てられ、1979年に完成しました。
1982年には、オーストラリアのメルボルンにあるビクトリア国立美術館で、初めて中国の外での展示が開かれます。1984年にはアメリカのレーガン大統領夫妻が現地を訪れ、兵馬俑は世界中から人が集まる場所になりました。
| 年 | できごと |
|---|---|
| 紀元前246年 | 13歳で秦王になった直後に、陵墓の工事が始まる |
| 紀元前221年 | 中国を統一し、始皇帝を名乗る |
| 紀元前210年 | 始皇帝が亡くなり、陵墓に葬られる |
| 1974年3月29日 | 井戸を掘っていた農民が、兵士の像のかけらを見つける |
| 1974年7月 | 考古学の調査隊が1号坑の発掘を始める |
| 1976年 | 2号坑と3号坑が見つかる |
| 1979年 | 1号坑を覆う保護の建物が完成する |
| 1987年 | 「秦の始皇陵」として世界遺産に登録される |
| 1999年 | 曲芸師の像が並ぶ坑(K9901)が発掘される |
有名な「約8000体」は、2007年時点の推定です。3つの坑を合わせて兵士8000体以上、戦車130台とそれを引く馬520頭、騎兵の馬150頭があると見積もられました。大半はまだ土の中にあり、並べて数えた結果ではありません。
見つかったのは兵士だけでもありません。墓の盛り土の西20メートルからは、実物の半分の大きさの青銅の馬車が2台出ています。部品は数千点に及び、鋳造・はんだ付け・打ち出し・穴あけを組み合わせて作られていました。皇帝があの世でも各地を巡るための乗り物だったと考えられています。ほかにも、曲芸師や馬の世話係の像、石のよろいを納めた武器庫などが見つかっています。
4分で消える色
いま写真で見る兵馬俑は灰色ですが、もとは色が塗られていました。白は焼いた骨、赤は辰砂、緑は孔雀石。青には藍銅鉱が使われました。「漢紫」と呼ばれる人工の紫も使われています。顔は淡い桃色で、眉やひげは黒く描かれていました。
この色を支えているのは、漆の下地です。掘り出して西安の乾いた空気に触れると、漆は15秒ほどで反り返ります。4分ほどたつと、剥がれ落ちてしまいます。掘ることと守ることが、別の技術だと分かる話です。
色を保つ方法が見つかるまで、急いで掘らない。それも発掘の大事な判断です。
像のモデルになった秦の軍が、どんな将軍に率いられてどう戦ったのか。それは兵馬俑だけでは分かりません。そこは『史記』や近年出土した文書をもとにした歴史の新書のほうが、ずっと詳しく追えます。
まだ開けられていない墓
始皇帝本人が眠る墓は、いまも開けられていません。盛り土は高さ51.3メートルが残り、二重の壁に囲まれています。
ユネスコによると、陵墓の周りには200近い陪葬坑があり、墓や建物の跡を合わせると600か所を超えます。範囲は56.25平方キロメートル。兵馬俑の3つの坑は、その一角にすぎません。
開けない理由の1つは、中の物を傷めずに守れるかという心配です。兵馬俑の色が4分で消えたことを思えば、慎重になるのも無理はありません。司馬遷が書いた水銀の川が本当に流れているのか。その答えは、もうしばらく土の中です。
次に兵馬俑の写真を見るときは、並んだ灰色の兵士の向こうを思い浮かべてみてください。まだ土をかぶったまま、順番を待っている兵士のほうが多いのです。
参考にした資料