シンガポールでガムが売っていない理由
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シンガポールの店にチューインガムが並んでいないのは、輸入と製造と販売が法律で禁じられているからです。引き金になったのは、地下鉄の車両ドアにガムを貼り付けるいたずらでした。
禁止が始まったのは1992年1月3日で、30年以上たった今も続いています。ただし、ガムをかむこと自体は違法ではありません。この記事では、禁止の中身と経緯、よく聞く誤解を順に整理します。
禁じられているのは「売る」と「持ち込む」
シンガポール税関が公開している輸入禁止品の一覧には、「チューインガム」がはっきり載っています。日本貿易振興機構(ジェトロ)の2025年8月時点の解説でも、薬用を除くガムの輸入と販売は、食品販売法と輸出入規制法によって禁止されています。
例外は2つだけです。1つは、保健科学庁(HSA)が承認した歯科用と薬用のガム。もう1つは、国外へ送り出すための中継です。税関によると、業者は登録して1万シンガポールドルの銀行保証を差し入れれば、ガムを他国へ再輸出できます。置いておけるのは自由貿易地域の中だけです。国内で売ることや食べることは、この例外に含まれません。
つまり、ガムが国内に入る道と店で売られる道が、どちらもふさがれています。店の棚にガムがないのは、そのためです。
きっかけは地下鉄のドアセンサー
禁止の話は、地下鉄より前からありました。リー・クアンユー元首相の回顧録によると、1983年に国家開発相のテー・チャンワンが禁止を提案しています。公営住宅の郵便受けや鍵穴、エレベーターのボタンにガムが詰められ、手入れに手間がかかっていたためです。リー首相は、禁止は「やりすぎ」だとして退けました。
流れを変えたのが地下鉄MRTです。1987年に開業したMRTは、総事業費50億シンガポールドルという、当時の国で最大の公共事業でした。ところが、使い終わったガムを車両ドアのセンサーに貼り付けるいたずらが起きます。センサーがふさがれるとドアが正しく動かず、運行が乱れました。件数は多くなくても、1回ごとの損害が大きく、犯人を捕まえるのも難しい問題でした。
1991年12月30日、環境省は禁止を発表し、4日後の1992年1月3日に施行しました。対象はふつうのガムだけでなく、風船ガムや歯科用のガム、ガムの原料(ガムベース)にまで及びました。前年の1990年に、首相はリー・クアンユーからゴー・チョクトンに代わっています。リー首相が見送った案が、次の政権で実現した形です。
実施は段階を踏みました。発表と同時に輸入が止まり、店には手持ちの在庫を売り切るための猶予が与えられます。その期間が過ぎると販売も全面的に禁じられ、残った在庫は没収されました。違反した人の名前を公表して見せしめにする手も使われています。禁止には賛否があり、公然と逆らう人もいました。
禁止される行為と、許される行為
禁止の範囲は、行為ごとに見ると分かりやすくなります。税関・ジェトロ・民間航空庁の資料と、禁止の経緯をまとめた百科事典の記述を表にしました。
| 行為 | 扱い |
|---|---|
| ガムの輸入 | 禁止。再輸出のための中継だけ条件つきで可 |
| ガムの製造 | 禁止 |
| ガムの販売 | 禁止。罰金は最高2,000シンガポールドル |
| 歯科用・薬用ガムの販売 | HSAの承認品なら可。歯科医か薬剤師が売る |
| 旅行者の持ち込み | 公式には輸入禁止品。持ち込もうとするだけで違反 |
| ガムをかむこと | 違法ではない |
| 道などへの吐き捨て | 罰金の対象 |
表の5段目は、意外と知られていません。シンガポール民間航空庁が公開する航空路誌は、入国者が持ち込めない品の1つにガムを挙げ、持ち込もうとすること自体が違反だと書いています。少量なら見逃されるという報道もありますが、旅行の荷物には入れないのが確実です。
よくある誤解:かむと逮捕される?
「シンガポールではガムをかむと逮捕される」という話は誤りです。法律が狙っているのは、売る人と輸入する人のほうです。すでに持っているガムを、自分でかむことまでは禁じていません。
「ガムでむち打ち刑になる」という話も俗説です。1994年、アメリカ人の10代の若者が器物損壊でむち打ち刑を言い渡され、世界中で報じられました。このとき使われたのはスプレー塗料で、ガムではありません。報道が混ざって、ガムでむち打ちになるという話が広まりました。ガムの禁止を定めた法律の罰は、罰金と禁錮だけです。
禁止を笑い話のように扱う海外メディアもありました。ガムがないと創造性が育たないのでは、と問われたリー・クアンユーは、こう返したと伝えられています。「かめないせいで考えられないなら、バナナを試せばいい」。
掃除で対応するイギリスとの違い
ガムの汚れに悩む国は、ほかにもあります。イギリス政府は2021年8月、ガムの汚れ対策の作業部会を立ち上げました。発表によると、イングランドの通りの約87%にガムのしみがあり、自治体の清掃費は年に約700万ポンドにのぼります。
イギリスは禁止ではなく、メーカーにお金を出させる道を選びました。マース・リグレーなどのガムメーカーが、5年間で最大1,000万ポンドを出し、しみの除去と「ゴミ箱へ」という呼びかけに使っています。政府の発表では、それまでの試行で、ガムのポイ捨てが最大64%減りました。
シンガポールは、その逆です。汚れてから掃除するのではなく、ガムが国に入る前に止めました。百科事典の記述によると、禁止のあと、地域を管理するタウンカウンシルは公共の場のガムのごみが大きく減ったと報告しています。エレベーターのドアがガムで止まることも、MRTが乱れることもなくなりました。
小さな国が、なぜここまで細かい決まりを作り、それを守らせてきたのか。その背景には、独立から続く政府主導の国づくりがあります。国の成り立ちから順に知りたいなら、シンガポールの歴史を1冊で追える新書が手がかりになります。
よくある疑問
- 2004年の一部解禁は、なぜ起きたのですか?
- アメリカとの自由貿易協定がきっかけです。シカゴのガムメーカーであるリグレー社が、ワシントンでロビー活動を行いました。イリノイ州選出の下院議員を通じて、ガムを交渉の議題に載せたのです。協定は2003年5月に調印されます。シンガポールは、歯を強くする成分を含むガムなど、健康に役立つガムに限って販売を認めました。条件は、歯科医か薬剤師が売り、買った人の名前を記録することです。
- 禁煙用のニコチンガムは、現地で買えますか?
- 買えます。2004年からは、ニコチンガムや歯科用のガムなど、治療や歯の健康に役立つガムが例外になりました。買う場所は医師・歯科医のもとか、登録された薬剤師のいる薬局です。スーパーやコンビニの棚には並びません。
- ガムを買いに国外へ行く人はいますか?
- います。禁止の直後から、橋を渡った先のマレーシアのジョホールバルへ買いに行く人がいました。ただし、国内に闇市場ができることはなかったとされます。持ち帰る場合は、上の表のとおり、公式には輸入禁止品にあたります。
まとめ
シンガポールでガムが売られていないのは、1992年1月3日から輸入・製造・販売が禁じられているからです。きっかけは地下鉄のドアセンサーへのいたずらで、1983年に一度見送られた案が、1991年末に実現しました。
かむこと自体は違法ではなく、むち打ちの話も俗説です。一方で、旅行者の持ち込みも公式には禁止品にあたります。シンガポールへ出かけるなら、出発前にかばんのポケットを確かめ、ガムは日本に置いていきましょう。
参考にした資料
- シンガポール税関 — Controlled and Prohibited Goods for Import
- Wikipedia — Chewing gum sales ban in Singapore
- 日本貿易振興機構(ジェトロ) — 菓子の輸入規制、輸入手続き(シンガポール)
- Singapore Customs(Ask.gov.sg) — Are we allowed to bring chewing gum into a Free Trade Zone (FTZ) prior to re-exportation?
- シンガポール民間航空庁(CAAS) — AIP GEN 1.3 Entry, Transit and Departure of Passengers and Crew
- GOV.UK — Chewing Gum Task Force to clean up our high streets(2021年8月30日)