世界で最初の紙のお金は、千年以上前の中国?
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世界で最初の紙のお金は、1023年に中国の北宋が国の管理下に置いた「交子(こうし)」です。生まれた場所は、いまの四川省・成都。
きっかけは、重すぎる鉄のお金を持ち歩く不便さでした。商人の預かり証として始まり、国の紙幣になり、刷りすぎて価値を落とす。いまのお札が抱える課題の多くを、交子は約1000年前に一通り経験しています。
唐の時代、紙は「送金の札」だった
紙にお金の役目をさせる工夫は、交子より200年ほど前からありました。唐の時代の「飛銭(ひせん)」です。
歴史書の『新唐書』によると、804年には商人が飛銭を使っていました。都へ向かう商人は、地元の役所や有力な家にお金を預けて、割り符を受け取ります。行った先でその割り符を照らし合わせれば、預けたお金を引き出せる仕組みです。重い銅銭を担いで長い道を行かずに済みました。
唐の政府は、はじめ飛銭を快く思わず、何度か禁じようとしました。それでも812年には、正式なやり取りの手段として認めています。都で現金に替えるときは、1000文につき100文の手数料がかかりました。公認されたあとは、財政や塩の専売を担う役所が飛銭を管理しています。
同じころ、都の長安には「櫃坊(きぼう)」などと呼ばれる業者がいました。他人の銅銭や金銀を預かって預かり証を出し、その証書が市中の取引にも使われていました。預けたお金の証書が、お金の代わりに回る。交子の仕組みの原型は、すでに唐にあったのです。
ただし飛銭は、遠くの町で現金を受け取るための送金手形です。だれもが日々の買い物に使う通貨ではありませんでした。
四川の鉄銭は重すぎた
時代が宋に移ると、四川や陝西では銅銭ではなく、鉄でできた「鉄銭」が通貨として使われました。994年に定められた銅銭と鉄銭の交換比率は、1対10。鉄銭は重いのに、価値は銅銭の10分の1しかなかったのです。
少し大きな取引をしようとすると、代金の鉄銭を運ぶだけで一苦労です。この不便さが、紙のお金を生みました。
成都の商人16戸が作った「預かり証」
交子を思いついたのは、役人ではなく成都の商人でした。北宋の真宗の時代(997〜1022年)、有力な商人16戸が連名で役所の許しを得て、交子を発行する店(交子鋪)を開きます。
名前の「交子」は、銭を渡したことを示す証票という意味です。仕組みも、その名のとおり預かり証でした。客が鉄銭を持ってくると、いくらであっても、その額を共通の紙に書き込みます。使う紙と模様は16戸でそろえ、それぞれ秘密の屋号を書き入れて渡しました。証書を持っていけば、いつでも鉄銭に戻せます。引き換えるときは、1貫(1000文)につき30文の手数料を取りました。
紙のほうが軽いので、鉄銭に戻さず、証書のまま支払いに使う人が増えていきます。米・麦・生糸・絹・茶が市場に出回る時期には、交子が特に大量に使われました。ギネスワールドレコーズは、人から人へ受け渡せる今の意味での紙幣として、この交子を最初に挙げています。
弱点もありました。引き換えの求めが一度に集まると、店が応じきれず、騒ぎになることがあったのです。預かったはずの鉄銭が足りなければ、紙はただの紙に戻ります。
1023年、国が紙幣を引き取る
こうした騒ぎを受けて、宋の政府は1023年に民間の交子の発行を禁じ、自ら発行することにしました。益州(成都)に「交子務(こうしむ)」という役所を置き、翌1024年に最初の官製の交子が出回ります。背景には、西方の西夏の侵入に備える軍事費を確保する目的もありました。日本では平安時代のなかばにあたります。
官製の交子には、決まりが細かく定められました。
- 発行額は125万貫あまり。引き換えのための準備金は36万貫
- 通用期限(界)は3年。期限が来たら新しい交子に取り替える
- 額面は1貫から10貫までの10種類。のちに1・5・10貫の3種類、さらに1貫と500文の2種類に
- 表には額面と発行年、発行高。裏には故事にちなんだ絵
民間の交子は、預けた額をその都度書き込む証書でした。官製の交子は額面の単位をあらかじめ決めて刷ったので、受け取る人は1枚ずつ金額を読み比べずに済みます。準備金は発行額の3割ほどです。全員が一度に引き換えに来ることはない、という前提で刷る量を決めていました。この考え方は、のちの銀行券にも通じます。ギネスワールドレコーズによると、交子はA4判ほどの大きさでした。偽造への警告が刷られ、本物を示す赤い印が押されていたといいます。実物の紙幣は1枚も残っていませんが、1023年ごろの印刷用の版は見つかっています。
刷りすぎた紙幣と、その後
はじめのうち、交子は発行の基準と準備金を備えていたので、よく流通しました。ところが政府は、しだいに準備金に見合わない量の紙幣を刷るようになります。
交子は1107年に「銭引(せんいん)」と名前を変え、黄河や淮河の流域にも広がります。北宋の末には、約7000万貫が流通していました。最初の125万貫の50倍を超える量です。南宋の時代になると、淮南(わいなん)でも同じ名の紙幣が出され、やがて政府の「会子(かいし)」が紙幣の主役になります。徽宗の時代には乱発の末に引き換えを止め、紙幣の価値は下がりました。紙幣とインフレの関係は、最初の紙幣がすでに経験していたことになります。
| 年 | 場所 | 出来事 |
|---|---|---|
| 804年 | 唐 | 商人が送金手形「飛銭」を使う |
| 812年 | 唐 | 政府が飛銭を正式に認める |
| 994年 | 北宋・四川 | 銅銭と鉄銭の交換比率を1対10と定める |
| 997〜1022年 | 北宋・成都 | 商人16戸が預かり証の交子を発行 |
| 1023年 | 北宋・成都 | 交子務を置き、交子を国の発行に |
| 1024年 | 北宋・成都 | 最初の官製の交子が出回る |
| 1107年 | 北宋 | 交子を「銭引」と改める |
| 1600年頃 | 日本・伊勢 | 商人が銀の預かり証「山田羽書」を出す |
| 1661年 | スウェーデン | ストックホルム銀行がヨーロッパ初の銀行券を出す |
| 1885年 | 日本 | 日本銀行券の発行が始まる |
中国の紙幣は、このあと元や明の時代にも形を変えて続きます。宋から現代までのお金の移り変わりを絵で追うなら、学習図鑑のほうが一度に見渡せます。
いまのお札につながる道
中国から遠く離れた土地でも、紙のお金は似た道をたどりました。日本銀行によると、日本の紙幣の先駆けは1600年頃の「山田羽書(やまだはがき)」です。伊勢山田の商人が、釣り銭として少額の銀貨を払う代わりに出した、銀の預かり証でした。
ヨーロッパで最初の銀行券は、1661年にスウェーデンのストックホルム銀行が出したものです。スウェーデンの中央銀行(リクスバンク)によると、創業者のヨハン・パルムストルックは預金の引き出しが殺到したのを機に証書を出しました。やがて刷りすぎて価値が下がり、銀行は破綻します。パルムストルックは1668年に死刑を言い渡され、のちに減刑されました。交子が500年以上前に通った道を、もう一度たどったことになります。
日本で日本銀行券の発行が始まったのは、1885年です。最初の官製の交子が出回ってから、860年あまりがたっていました。
紙のお金は、便利さへの憧れではなく、重くて運べないという困りごとから生まれました。その紙を支えていたのは、いつでも引き換えてもらえる、という信用です。次にお札を財布から出すとき、その軽さと信用が1000年前の成都から続いていることを思い出してみてください。
参考にした資料