夏に溶けるゴムが、ストーブの偶然で生まれ変わった?
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19世紀前半のゴムは、夏になると溶けてべたつき、冬になると硬くひび割れる素材でした。それを変えたのが、ゴムに硫黄を混ぜて熱する「加硫」です。1839年、アメリカのチャールズ・グッドイヤーが、ゴムと硫黄の混合物をうっかり熱いストーブに触れさせたことから見つけました。
ただし、この話は偶然だけでは語れません。3600年前の中米の人々、硫黄を先に試した人、同じ発明を争ったイギリスの技術者。この記事では、ゴムが今の形になるまでを、人物と年を追ってたどります。
紀元前1600年、中米のゴムまり
ゴムを加工した最初の人々は、ヨーロッパではなく中米にいました。マサチューセッツ工科大学(MIT)の研究チームは1999年、紀元前1600年ごろのメソアメリカの人々が、ゴムノキの樹液からゴムを作っていたと発表しています。
樹液を固めただけのゴムは、もろくて弾みません。そこで人々は、アサガオの仲間(イポメア・アルバ)の汁を混ぜて弾力を高めました。2010年の再現実験では、樹液とアサガオの汁を半分ずつ混ぜたときに、いちばんよく弾みました。こうして作られたまりは大きいものでビーチボールほど、重さは7キログラムに達し、儀式の球技に使われました。
ヨーロッパでゴムが身近な物になるのは、ずっと後です。1770年、イギリスの化学者ジョゼフ・プリーストリーは、この素材を「鉛筆の跡を消すのにすぐれた物質」として紹介しました。英語でゴムを「ラバー(こするもの)」と呼ぶのは、この使い道から来ています。
1830年代、溶けて割れる「奇跡の素材」
1830年代のアメリカでは、水を通さないゴムが「奇跡の素材」ともてはやされ、防水の靴やコートが売り出されました。ところが売れたのは最初だけです。夏の暑さで表面が溶けてべたつき、冬の寒さで硬くなって割れました。
グッドイヤーは1800年、コネチカット州ニューヘイブンに生まれました。父の金物店が倒産したあと、33歳でゴム製品の道に入ります。1834年、ニューヨークのロクスベリー・インディア・ラバー社を訪ねたことが、ゴムを安定させる方法を探すきっかけになりました。
暮らしは苦しいままでした。1837年の金融恐慌で一家は財産を失い、グッドイヤーは借金を払えず、何度も債務者監獄に入っています。それでも実験はやめませんでした。
1838年の硫黄と、1839年のストーブ
硫黄を使う発想は、グッドイヤーが一から思いついたものではありません。同じアメリカのナサニエル・ヘイワードが、布に塗ったゴムに硫黄を載せると加工が楽になる、と発見していました。1838年、グッドイヤーはその権利を3,000ドルで譲り受け、ヘイワードを雇い入れます。ただし、硫黄を混ぜるだけでは、夏に溶けて冬に割れる弱点は消えませんでした。
1839年、マサチューセッツ州ウォーバーンで、ゴムと硫黄の混合物が熱いストーブに触れます。自著によると、ゴムは溶けずに革のように焦げました。足りなかった条件は「熱」だったのです。
グッドイヤーは、居合わせた兄弟やゴム製造に詳しい人たちに知らせました。しかし誰も気に留めません。いつもの「新しい実験の売り込み」だと思われたのです。
彼は考えました。焦げる手前の適切な時点で加熱を止めれば、ゴム全体のべたつきが消えるはずだ。暖炉の火の前で同じような布を熱すると、焦げた部分の縁に、焦げずにうまく固まった帯が現れます。そこから温度と時間を詰める作業に、さらに数年がかかりました。
熱と硫黄が、鎖に橋を架ける
生のゴムの中では、長い分子の鎖がただ絡まり合っているだけです。引っ張ると鎖どうしが滑ってずれるため、いったん伸びると形が戻りません。熱が加わればなおさら滑りやすくなります。夏に溶けたのはこのためです。
硫黄を加えて熱すると、硫黄の原子がつながった短い鎖が、ゴムの鎖と鎖のあいだに橋を架けます。これを架橋と呼びます。橋でつながれた鎖は、伸びても元の位置に引き戻されます。これが「引っ張っても戻る」弾力の正体です。
橋のかけ方でも性質は変わります。硫黄の橋が短いほど熱に強く、硫黄の原子が多い長い橋ほど、曲げ伸ばしには強い代わりに熱に弱くなります。硫黄だけでは反応が遅いので、今は反応を速める薬品を組み合わせて加硫します。
1843〜1860年、特許と争い
グッドイヤーは1844年6月15日、加硫の米国特許(3633号)を得ました。ところがイギリスでは、マッキントッシュ社で働くトーマス・ハンコックが、1843年11月21日に硫黄による加硫の特許を取っていました。グッドイヤーの米国での手続きより、約8週間早い日付です。
加硫を意味する英語「バルカナイゼーション」は、ハンコックの友人ウィリアム・ブロッケドンが提案した名前です。ローマ神話の火の神ウルカヌス(英語でバルカン)は、火山の熱と硫黄に結びつけられていました。
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 紀元前1600年ごろ | メソアメリカの人々が、樹液とアサガオの汁でゴムを作る |
| 1770年 | プリーストリーが、鉛筆の跡を消す物質としてゴムを紹介 |
| 1838年 | グッドイヤーが、ヘイワードの硫黄の権利を3,000ドルで譲り受ける |
| 1839年 | ウォーバーンで、加熱した硫黄入りのゴムが溶けずに固まる |
| 1843年11月21日 | ハンコックが、イギリスで加硫の特許を取る |
| 1844年6月15日 | グッドイヤーが、米国特許3633号を得る |
| 1852年 | グッドイヤー対デイ裁判で、グッドイヤーの特許が認められる |
| 1853〜55年 | グッドイヤーが自著『ガム・エラスティック』を刊行 |
| 1860年7月1日 | グッドイヤーが、約20万ドルの借金を残して死去 |
| 1898年 | オハイオ州アクロンで、グッドイヤー・タイヤ&ラバー社が創業 |
グッドイヤーは、各地で特許をめぐる裁判を戦い続けました。1852年のグッドイヤー対デイ裁判では、加硫の特許が彼のものだと認められています。ヘイワードも後に、譲った権利の範囲をめぐってグッドイヤーを訴えています。ただし宣誓供述書では、加硫を発明したのは自分ではないと認めました。
1855年のパリ万国博覧会では、加硫ゴムの展示にかけた費用が借金になり、イギリスとフランスで債務者監獄に入ります。フランスのレジオン・ドヌール勲章を受けたのは、その獄中でした。1860年7月1日、グッドイヤーはニューヨークで亡くなります。残ったのは約20万ドルの借金でした。
本人は「偶然」を認めなかった
ストーブの逸話は「偶然の発明」の代表としてよく語られます。しかしグッドイヤー自身は、1853年の自著で違う説明をしています。この発見は科学的な化学の研究から生まれた物ではない。しかし世間でいう偶然の結果でもない。最も熱心な取り組みと観察の結果だ、と書きました。
同じ本で彼は、自分の体験を、木から落ちるリンゴの話にたとえています。何年も同じ目的を追い、関係する物事を1つも見逃さなかった。だからこそストーブの上の焦げ方に意味を見つけられた、という主張です。実際、居合わせた人たちは同じ焦げたゴムを見ても、何も気づきませんでした。
硫黄の原子がゴムの鎖をつなぐ仕組みは、元素そのものを知ると分かりやすくなります。黄色い結晶の硫黄が、身の回りのどんな物に使われているかは、写真の多い元素の図鑑で見比べられます。
1898年に創業したグッドイヤー・タイヤ&ラバー社は、彼に敬意を表して名づけられた会社で、本人が創業したわけではありません。発明者が生きているうちに受け取れなかった評価は、社名と、夏でも溶けないタイヤや靴底の中に残りました。次に輪ゴムを伸ばしたときは、鎖をつなぐ硫黄の橋を思い出してみてください。
参考にした資料
- Connecticut History — Charles Goodyear and the Vulcanization of Rubber
- Connecticut History — Rubber Vulcanization and the Myth of Nathaniel Hayward
- Wikipedia — Vulcanization
- Wikipedia — Charles Goodyear(米国特許3633号・パリ万博・死去)
- MIT News — Rubber processed in ancient Mesoamerica, MIT researchers find(1999年)
- MIT News — A good many years before Goodyear(2010年)
- Wikipedia — Eraser(プリーストリーとラバーの語源)
- Internet Archive — Charles Goodyear『Gum-Elastic and Its Varieties』(1853年)