科学

放置した培養皿の青カビが、命を救う薬になった?

2026年7月公開 · 2026年10月更新 · 読了7分
放置した培養皿の青カビが、命を救う薬になった?

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1928年9月3日、休暇から研究室に戻ったイギリスの細菌学者アレクサンダー・フレミングは、片づけ忘れた培養皿に青カビが生えているのを見つけました。カビを取り囲む部分だけ、菌が消えています。これが、抗生物質ペニシリンの出発点です。

ただし、見つけたその日に薬ができたわけではありません。患者に使えるまでに十数年かかり、量産の方法は国によって大きく違いました。この記事では、細菌とウイルスの違いや各国の量産を比べながら、ペニシリンの歩みをたどります。

1928年の培養皿に起きたこと

舞台は、ロンドンのセント・メアリー病院の研究室です。フレミングが育てていたのは、傷の化膿やできものの原因になる黄色ブドウ球菌でした。休暇のあいだ、培養皿は実験台に置かれたままです。戻った彼は、青カビの塊の周りに、菌の育たない透明な輪ができているのに気づきました。

彼は、このカビが出す物質を「ペニシリン」と名づけます。カビの属名ペニシリウム(青カビの仲間)から取った名前です。

透明な輪ができたのは、温度の巡り合わせが良かったからです。のちにロナルド・ヘアという研究者が、この発見の再現に挑みました。1966年8月1日に一度は成功したものの、2週間後の同じ実験は失敗します。そこで温度を変えて試したところ、輪が確実に現れたのは20度より低いときで、32度を超えると一度も現れませんでした。

ヘアが1928年の気象記録を調べると、8月半ばに暑い日が続いたあと、8月28日から9日間の涼しい日がありました。先にカビが育って物質を出し、そのあと暖かくなって菌が増える。ペニシリンは増えている最中の菌にしか効かないため、この順番でなければ輪は現れません。

なお「開いていた窓から胞子が飛び込んだ」という話は、よく語られる俗説です。当時の研究員は、研究室の窓はいつも閉まっていたと証言しています。胞子は、1階下にあった真菌学者ラ・トゥーシュの研究室から漂ってきた、という見方が定説です。

細菌は壊れ、ウイルスには効かない

ペニシリンが壊すのは、細菌の細胞壁です。細菌は、ペプチドグリカンという網のような物質で壁を作り、内側からの圧力に耐えています。ペニシリンは、この壁を仕上げる最後の工程を止めます。壁を作れなくなった細菌は、分裂して増える途中で壊れます。

人の細胞には、もともと細胞壁がありません。だからペニシリンは、人の細胞を傷つけずに細菌だけを狙えるのです。

同じ「病原体」でも、ウイルスは仕組みがまったく違います。北九州市の薬剤耐性(AMR)対策の解説から、違いを表にしました。

細菌とウイルスの違い(北九州市「薬剤耐性(AMR)対策」をもとに作成)
細菌ウイルス
大きさウイルスの約50倍細菌の約50分の1
細胞自分の細胞を持つ細胞を持たない
増え方栄養があれば自分で分裂して増えるほかの細胞に入り込み、コピーを作らせる
抗菌薬(抗生物質)種類によって効く効かない

ウイルスには壊すべき細胞壁がなく、自分で増える仕組みも持っていません。抗菌薬が働く的そのものが無いのです。同市の解説も、風邪の原因の多くはウイルスで、抗菌薬は効かないと説明しています。

発見から薬になるまでの12年

フレミングは1929年に論文を発表しますが、ほとんど注目されませんでした。ペニシリンは不安定で、取り出して濃くする作業が当時の技術では難しかったのです。彼自身は、傷口に塗る消毒薬に近い使い方を思い描いていました。

流れを変えたのは、オックスフォード大学のハワード・フローリーとエルンスト・チェインらのチームです。1939年5月25日、8匹のネズミに強い毒性の連鎖球菌を注射し、4匹だけにペニシリンを与えました。翌朝、ペニシリンを与えなかった4匹はすべて死に、与えた4匹はすべて生きていました。結果は1940年8月、医学誌ランセットに載ります。

1941年2月には、全身に膿のたまった警察官に初めて使われました。容体は24時間で上向きましたが、薬が途中で尽き、数週間後に亡くなります。足りないのは効き目ではなく、量でした。

1945年のノーベル生理学・医学賞は、フレミング・フローリー・チェインの3人が共同で受賞しています。

国ごとに違った量産の道

量の壁は、戦争中の各国が同時にぶつかった問題でした。アメリカ疾病予防管理センター(CDC)の学術誌の論文などから、主な国の歩みを並べます。

第二次世界大戦前後のペニシリン量産(CDC学術誌の論文・日本化学会の資料などをもとに作成)
国主な出来事到達点
イギリス1928年に発見、1940年に動物実験の結果を発表1941年2月の最初の患者は、薬が尽きて治療が途中で止まる
アメリカピオリアの農務省研究所で、メロンの青カビとトウモロコシ浸漬液を使う方法を確立1943年9月までに連合軍の需要をまかなう
ドイツ1944年10月までに製造に成功空襲で量産が進まず
フランス戦時中に製造を試みる終戦までに約30人分
オランダ18の株を試し、P-6株を選ぶ1946年1月に販売開始
日本1944年2月、陸軍軍医学校にペニシリン委員会。国産品は「碧素」約9か月で1.5リットルの量産に成功

アメリカを押し上げたのは、イリノイ州ピオリアにあった農務省の研究所です。研究所が集めていた約1000株の青カビの仲間のうち、ペニシリンを作れたのは、フレミングの株のほかに1株だけでした。そこで各地からカビが集められます。市場で傷んだメロンに生えていた青カビの株は、フレミングの株の約6倍のペニシリンを作りました。トウモロコシのでんぷんを作るときに出る廃液(コーンスティープリカー)を栄養に使うと、生産量はさらに大きく伸びます。

1941年のアメリカには、患者1人を治療する量もありませんでした。それが1944年春のノルマンディー上陸作戦までに、230万回分を用意できるまでになります。製薬会社ファイザーの技術者が提案した大型タンクでの培養も、この量産を支えました。

日本の碧素は、戦時中に限られた材料で作られました。終戦後には東洋レーヨン(今の東レ)がタンク培養の技術を確立し、1946年末から工業規模の生産が始まります。碧素のアンプルや研究記録は、2024年に日本化学会の化学遺産に認定されました。

量産より前に見つかっていた「効かない菌」

ペニシリンが効かない菌の話は、実は量産より前からあります。1940年、チェインらは大腸菌などがペニシリンを分解する酵素を作ることを見つけ、ペニシリナーゼと名づけました。患者に初めて使われる前の年です。

フレミングもノーベル賞の講演(1945年12月11日)で、この点に触れました。ペニシリンが店で誰でも買えるようになると、量が足りない使い方が広がる。菌を死なない程度の量の薬にさらすと、薬に耐える菌が育つおそれがある、という警告です。

警告は現実になりました。北九州市の解説によると、1980年以降、従来の抗菌薬が効かない薬剤耐性菌が世界中で増えています。

この記事では培養皿の上の青カビしか扱えませんでしたが、青カビの仲間は野外のあちこちで暮らしています。カビがどんな場所に生え、どう見分けるのかは、写真の多いカビの図鑑のほうが分かりやすい話です。

1枚の培養皿が残したもの

1枚の培養皿から始まった話は、温度の偶然とオックスフォードの12年を経て、ピオリアのメロンで世界に広がりました。ペニシリンの話を聞いたら、効き目の話と同じくらい「どれだけの量を、どう作ったか」にも目を向けてみてください。量の壁を越えたのは、各国の研究者の地道な工夫でした。

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