雑学

パルテノン神殿にまっすぐな線がほとんどない?

2026年7月公開 · 2026年10月更新 · 読了7分
パルテノン神殿にまっすぐな線がほとんどない?

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ギリシャのアテネの丘に立つパルテノン神殿は、まっすぐな柱が整然と並んで見えます。ところが実際には、土台も柱もわずかに曲がっています。正面の土台は中央が約6センチ高く、柱は中ほどがふくらみ、しかも内側へ傾いています。

この曲がりが測って確かめられたのは、完成から2000年以上たった19世紀のことでした。なぜ曲げたのかは、今も議論が続いています。この記事では、パルテノン神殿について浮かびやすい疑問を順に取り上げます。

パルテノン神殿は、いつ誰が建てたの?

建てられたのは紀元前447年から紀元前432年にかけてです。アテネの政治家ペリクレスが計画を始め、建築家イクティノスとカリクラテスが設計し、彫刻家フェイディアスが彫刻の仕事を率いました。費用には、アテネが中心となった同盟(デロス同盟)の軍資金の余りが使われています。

神殿は、アテネの守り神である女神アテナにささげられました。中には、象牙と金で飾った高さ11〜12メートルほどのアテナ像が立っていたと伝えられます。像に使われた金は約1,140キロ。像は紀元前438年ごろに奉納されましたが、今は残っていません。

どのくらいの大きさなの?

神殿が立つアクロポリスの丘は、約300メートル×150メートル、高さ約70メートルの岩山です。土台の大きさは約30.9メートル×約69.5メートルで、建物の高さは約13.7メートル。材料はアテネ近郊のペンテリコン山の大理石で、使われた量は約2万2000トンです。それまでのギリシャのどの神殿よりも多い量でした。

柱は、正面と背面に8本、側面に17本ずつ並びます。当時のふつうの神殿は6本×13本だったので、ひと回り大きな造りです。神殿の壁の上部には長さ約160メートルの帯状の浮き彫りがめぐり、約380人の人物と約220頭の動物が刻まれていました。

寸法の比については、4対9という比が神殿のあちこちにくり返し使われているという説を、1863年にウィリアム・ワトキス・ロイドが発表しました。黄金比(約1.618)が使われているという主張もありますが、どちらにも異論があります。

本当にまっすぐな線がないの?

ほとんどありません。土台・柱・柱の間隔のそれぞれに、目では気づきにくい小さな調整が入っています。19世紀以降の測量で分かった、主な曲がりは次のとおりです。

パルテノン神殿のおもな「曲がり」(アイリッシュ・タイムズ、英語版ウィキペディアなどをもとに作成)
場所どう曲がっているか大きさの目安
正面の土台中央が両端より高い約6センチ
側面の土台中央が持ち上がる約70メートルで10.3センチ(約700分の1)
柱の胴中ほどがふくらむ(エンタシス)550〜600分の1ほど
柱の傾きわずかに内側へ傾く延ばすと数キロ上空で交わる
四隅の柱ほかの柱より少し太く、間隔も狭いわずか

反っているのは土台だけではありません。ペンローズの測量では、柱の上に載る梁の部分にも意図的な反りが見つかっています。反った土台に傾いた柱を立てるため、石は置く場所に合わせて少しずつ形を変えて削られています。まっすぐに造るより、はるかに手間のかかる設計です。

なぜ、わざわざ曲げたの?

古くからある説明は「目の錯覚を打ち消すため」です。大きな建物の水平線は、本当にまっすぐだと中央がたれ下がって見える。そこで、あらかじめ逆向きに反らせておけば見る人の目にはまっすぐ映る、という理屈です。

この考えを文章に残したのが、紀元前1世紀のローマの建築家ウィトルウィウスです。著書『建築について』の第3書で、土台は中央が高くなるように調整すべきだと書き、水平に造るとくぼんで見えるからだと説明しています。柱のふくらみも、真ん中がくびれて細く見えるのを防ぐためと考えられてきました。四隅の柱を太くするのは、ほかより細く見えてしまうのを補うため、という説明です。1世紀ごろのアレクサンドリアのヘロンも、錯覚を補うためという考えを示しています。

錯覚を打ち消すという説は、確かめられたの?

確かめられてはいません。パルテノン神殿の設計者が考えを書き残した記録はなく、ウィトルウィウスが書いたのは完成から400年ほどあとです。イクティノスらが神殿について本を書いたことは伝わっていますが、その本は残っていません。

ほかの説もあります。土台の反りは、雨水を外へ流すための実用的な工夫だという見方です。柱の膨らみについては、建物に力強さを与えるためだという見方もあります。

錯覚の効果そのものを疑う研究も出ています。英語版ウィキペディアの「エンタシス」の項目によると、現代の心理学の研究では、柱のふくらみで打ち消すような錯覚を人は感じていないとされます。オックスフォード大学の数学者アラン・ゴリエリは、パルテノン神殿の視覚補正は「無意味か、実際にはほとんど見分けられない」と述べています。

曲がりに気づいたのは、いつ?

19世紀です。イギリスの建築家ジョン・ペネソーンが、水平の線が反っていることに気づき、1844年に発表しました。ペネソーンは1878年の著書でも、この曲がりは意図して造られたものだと論じています。

同じころ、イギリスの建築家フランシス・クランマー・ペンローズも独自に同じ結論に達しました。ペンローズはロンドンの好古家の団体ディレッタンティ協会の支援で現地を測り直し、1847年に『パルテノン神殿の建造に見られる異常』を出版します。1851年の『アテネ建築の原理の研究』は、この問題を初めて体系的にまとめた本です。その後の調査で、こうした反りは紀元前6世紀半ばのコリントのアポロン神殿など、ほかのギリシャ神殿でも見つかっています。以後、こうした微調整は「オプティカル・リファインメント(視覚的洗練)」と呼ばれ、古代ギリシャ建築を語るうえで欠かせない話題になりました。

2000年以上のあいだに、何があったの?

パルテノン神殿は、使い方を変えながら残ってきました。5世紀ごろにはキリスト教の教会になり、1458年にアテネを支配したオスマン帝国のもとで、15世紀のうちにモスクとして使われるようになります。

大きく壊れたのは1687年9月26日です。ヴェネツィア軍がアクロポリスを攻めたとき、砲弾が神殿の中に置かれていた火薬庫に当たりました。爆発で約300人が亡くなり、建物の内部と南北の柱の多くが崩れました。1801年から1812年には、英国のエルギン伯爵の代理人たちが、残っていた彫刻の約半分を持ち出しています。ギリシャ政府は1983年、正式に返還を求めました。

1975年からは、ギリシャ政府が設けた委員会のもとで大がかりな修復が続いています。完成から2400年以上たった今も、神殿の修復と調査は続いています。

柱の形の違いや、神殿の彫刻がどんな美術の流れから生まれたのかは、図版と並べて読むと分かりやすい話です。古代ギリシャの美術全体の中で神殿を見たいなら、美術史の入門書が手がかりになります。

まとめ

パルテノン神殿の正面の土台は中央で約6センチ持ち上がり、柱は中ほどが膨らんで内側へ傾いています。「まっすぐ造れなかった建物」ではなく、すべての石を場所ごとに削り分けた「わざと曲げた建物」です。ただし曲げた理由は、錯覚の補正・雨水対策・力強さの表現と説が分かれ、決着していません。

次に写真を見るときは、柱ではなく土台の線を横から目で追ってみてください。中央がわずかに持ち上がっているのが分かるはずです。

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