雑学

本物のオレンジを投げ合う、イタリアの激しい祭り

2026年7月公開 · 2026年10月更新 · 読了8分
本物のオレンジを投げ合う、イタリアの激しい祭り

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イタリア北部の町イヴレーアでは、謝肉祭の最後の3日間、本物のオレンジを投げ合う「オレンジ合戦」が開かれます。防具なしの徒歩の9チームが「民衆」、約50台の馬車が「暴君の兵」となり、町の5つの広場で戦います。

下敷きにあるのは、粉屋の娘が暴君を倒したという伝説と、1194年に住民が領主の城を壊したという史実です。この記事では、2つの陣営・伝説と史実・昔と今の投げる物を、順に比べていきます。

民衆と兵士、2つの陣営を比べる

舞台はピエモンテ州の町イヴレーアです。合戦は謝肉祭の日曜・月曜・火曜の午後に行われ、たいていは2月、年によっては3月にずれ込みます。2026年の謝肉祭は2月1日から18日まで続き、合戦は15日から17日でした。戦場になるのは、オッティネッティ広場・チッタ広場・ボルゲット・ロンドリーノ広場・フレグーリア広場の5か所です。このうちボルゲットだけは、町を流れるドーラ・バルテア川の右岸にあります。

戦う人はアランチェーリ(オレンジ投げ手)と呼ばれ、2つの陣営に分かれます。両者の違いは次のとおりです。

オレンジ合戦の2つの陣営(各種報道・Wikipedia をもとに作成)
比べる点徒歩のチーム馬車のチーム
表すもの蜂起した民衆暴君の兵士
数9チーム(合わせて数千人)約50台
動き方広場の中で投げる馬に引かれて広場を通る
防具なし革のかぶと(マスク)と防具
いちばん古いチームアッソ・ディ・ピッケ(1947年)—

防具の差は、物語の力関係そのものです。武装した兵士に、素手の民衆が数で立ち向かう。だから徒歩のチームは、あえて何も身につけません。代わりに体は無傷では済まず、2026年は初日の日曜だけで138人が打ち身などの手当てを受け、17人が病院に運ばれました。命にかかわるけがの人はいませんでした。地元紙によると、手当てのうち約100件は目のけがで、残りは転倒や人混みでの衝突が中心です。

徒歩の9チームは、1947年のアッソ・ディ・ピッケから1985年のクレデンダーリまで、結成の年がばらばらです。名前も個性的です。1954年結成のアランチェーリ・デッラ・モルテは「死のオレンジ投げ手」、1965年結成のパンテーラ・ネーラは「黒豹」という意味です。1973年結成のディアーヴォリは「悪魔」、1974年結成のメルチェナーリは「傭兵」を指します。ほかに1964年結成のトゥキーニ・デル・ボルゲットとデッリ・スカッキ、1966年結成のスコルピオーニ・ダルドゥイーノがあります。毎年の戦いぶりは審査されます。イタリア語版ウィキペディアの集計では、優勝の回数はアッソ・ディ・ピッケが16回で最多、ディアーヴォリが14回で続きます。

伝説と史実を比べる

祭りの物語の主役は、粉屋の娘ヴィオレッタです。町を支配する暴君が、結婚を控えた彼女に初夜の権利を求めた。ヴィオレッタは逆に暴君の首をはね、それを合図に民衆が城へ押し寄せた。そういう筋書きです。今も毎年、町の女性1人が「ムニャイア(粉屋の娘)」に選ばれ、祭りの顔になります。

ただし、この話はそのままの形では記録に残っていません。伝説と、確かめられる史実を並べると次のようになります。

オレンジ合戦の伝説と史実(Wikipedia 英語版・イタリア語版と伊紙 Open の記事をもとに作成)
比べる点伝説史実・記録
倒された相手名もない暴君1194年、住民が領主グイド3世に蜂起し、城を壊した
暴君のモデル—12世紀のラニエーリ・ディ・ビアンドラーテと、13世紀のモンフェッラート侯グリエルモ7世が混ざったとされる
主人公粉屋の娘ヴィオレッタ実在の記録は見つかっていない
謝肉祭の記録—1246年の教区の文書に初めて登場
今の形—1808年、ナポレオン支配下で地区ごとの祭りを1つにまとめる

1808年の統合のとき、治安を守る役として「将軍(ジェネラーレ)」が置かれました。将軍は今も1月6日に役に就き、謝肉祭の木曜日に市長から町の権限を受け取ります。伝説の物語に、ナポレオン時代の役職が加わって、今の祭りの形ができていきました。

史実の側にも、物語らしい仕掛けが残っています。謝肉祭の日曜の朝、古い橋の上から川へ石を後ろ向きに投げ込む儀式があり、暴君の支配を拒む印とされています。合戦のオレンジも、城に投げつけた石を表すとされています。

昔の豆と今のオレンジを比べる

実は、オレンジはこの祭りの新顔です。もともと投げられていたのは豆で、次にリンゴになり、オレンジが使われ始めたのは19世紀でした。今の合戦の形が固まったのは、第二次世界大戦のあとです。最古の徒歩チームの結成が1947年なのも、そのためです。

豆は今も祭りに残っています。広場では脂身と煮込んだ豆料理(ファジョーリ・グラッシ)がふるまわれ、灰の水曜日にはポレンタと干しダラを食べます。投げる物は豆から果物に変わっても、食べる物としての豆は続いているのです。

ただしイヴレーアのあるアルプスのふもとでは、オレンジは採れません。実はシチリアやカラブリアなど南イタリアから運ばれます。使われるのは食用に回らない実で、合戦がなければ廃棄されていた柑橘です。1994年に運び込まれた量は約265トンでした。2026年については、1,000トンを超える柑橘が使われたと伝えられています。

投げたあとの実も、捨てられるだけではありません。広場で潰れたオレンジは集められ、堆肥になります。2026年の合戦の実から作った堆肥は、同じ年の10月16日から18日に、近くのマジーノ城で無料で配られました。

見物人のルールと、祭りの終わり

見物人も、広場に入ればオレンジの飛ぶ範囲にいます。身を守る目印が、赤いフリジア帽です。靴下のような形の赤い帽子で、自由を求める反乱に加わる印とされています。謝肉祭の木曜日の午後、市役所で市長が将軍に権限を渡し、赤い帽子をかぶる儀式があります。ここから町じゅうの人がかぶり始めます。観光案内のサイトも、オレンジの的にされないよう買っておくことを勧めています。逆に、帽子なしで投げ合いの近くに立てば、オレンジが飛んでくることは覚悟しなければなりません。

祭りが止まった年もあります。第一次世界大戦中の1915〜1918年、第二次世界大戦中の1940〜1945年、そして新型コロナの流行した2021年と2022年です。

最後の火曜日の夜、祭りは静かに終わります。町を歩く無言の行列と葬送の儀式があり、広場では「スカルリ」と呼ばれる飾り柱が燃やされます。将軍は方言で「木曜の1時にまた会おう」と別れを告げます。次の年の謝肉祭の始まりを指す言葉です。

この祭りの芯にあるのは、城に住む領主と、その下で暮らす人々の関係です。中世の城の中で領主や家来がどんな毎日を送っていたかを知ると、民衆が城を壊した1194年の出来事が、もう少し具体的に見えてきます。

いま残っているもの

イヴレーアのオレンジ合戦は、1194年の蜂起という史実に、ヴィオレッタの伝説と1808年の将軍の制度が重なってできた祭りです。投げる物は豆からリンゴ、オレンジへと変わりました。今は徒歩の9チームと約50台の馬車が、1,000トンを超える柑橘をぶつけ合います。

見に行くなら、謝肉祭の木曜日までに赤いフリジア帽を手に入れてください。2027年に向けては、馬車チームの事前登録が2026年10月15日にもう締め切られています。

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