マチュ・ピチュは本当に忘れられた都だったのか
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マチュ・ピチュは「失われた都市」と紹介されますが、地元の人はその場所を知っていました。1911年にハイラム・ビンガムを案内したのは近くの農民で、遺跡の段々畑では別の農民が作物を育てていました。
忘れていたのは、外の世界のほうです。造られた年も、本来の名前も、この10年ほどの研究で見直されています。この記事では、その根拠を自分の目で確かめる方法まで紹介します。
標高2,430メートルの尾根に造られた王の離宮
マチュ・ピチュがあるのは、ペルー南部の標高2,430メートルの尾根の上です。インカ帝国の皇帝パチャクテクのために造られた離宮だったと考えられています。都市というより、王族が滞在する別荘に近い場所でした。
建物は約200棟あります。離宮として使われていた頃に暮らしたのは約750人で、その多くは王族の暮らしを支える働き手でした。冬には数百人まで減ったとみられています。壁は、切りそろえた石を接着剤を使わずに積み上げた空積みです。高台には「インティワタナ」と呼ばれる石があり、ケチュア語で「太陽をつなぎとめる場所」を意味します。
周りは切り立った谷に囲まれ、道を知らなければたどり着けません。この地形が、のちに遺跡を人目から遠ざけることになります。1981年にペルーの歴史保護区となり、1983年にはユネスコの世界遺産に登録されました。2007年には「新・世界七不思議」の一つにも選ばれています。
「失われた都市」は本当?
ビンガムが遺跡に立ったのは、1911年7月24日です。道に迷って偶然たどり着いたのではありません。地元の農民メルチョル・アルテアガが、ビンガムと、同行したペルー人のカラスコ軍曹を案内しました。
遺跡では、ケチュア人のリチャルテとアルバレスが、4年前に自分たちで切り開き直したインカ時代の段々畑で作物を育てていました。無人の秘境ではなかったのです。
翌1912年、ビンガムはナショナル・ジオグラフィック協会の支援を受けて再び調査隊を率い、本格的な発掘を行いました。このとき4つの墓地から掘り出された人骨が、100年以上たって年代の決め手になります。
イリノイ大学シカゴ校の記事によると、ビンガムはクスコを出る前に、ウルバンバ川沿いに「ワイナ・ピチュ」という遺跡があると聞いていました。それでも当時、この遺跡はクスコ地方の人々の間でもあまり知られていませんでした。「失われた都市」という呼び方は、知る人の少なさを大きく言い表した言葉です。
スペイン軍がここを攻めた記録は見つかっていません。石組みが壊されずに残ったのは、そのためだと考えられています。
いつ造られた?人骨が書き換えた年代
建設の時期は長い間、スペイン人が残した年代記をもとに推定されてきました。年代記では、パチャクテクが権力を握ったのは1438年です。そこから多くの研究者は、マチュ・ピチュの建設を1440〜1450年ごろとみていました。
この見方を書き換えたのが、イェール大学のリチャード・バーガーらが2021年に学術誌『アンティクイティ』に発表した研究です。1912年の発掘で4つの墓地から出た26人の骨や歯を、加速器質量分析(AMS)という方法で放射性炭素年代測定にかけました。
結果は、遅くとも1420年には人が住み、1530年ごろまで住み続けていた、というものです。年代記より少なくとも20年古い計算になります。1530年代にはスペイン人がインカの政府を倒しており、人が住まなくなった時期とも重なります。バーガーは、科学的な証拠にもとづいてマチュ・ピチュの始まりを推定した初めての研究だ、と述べています。年代記は征服者側の聞き書きです。人骨の測定は、その記録に頼らずに年代を出せる点が強みです。
本当の名前は「ワイナ・ピチュ」?
名前も見直されています。ペルー文化省の歴史家ドナト・アマド・ゴンサレスと、イリノイ大学シカゴ校の考古学者ブライアン・バウアーは、学術誌『ニャウパ・パチャ』で遺跡の名前を検討しました。2人が調べたのは、ビンガムの野帳、20世紀初めの地図、何百年も前の土地の書類です。
ビンガムがペルーに来る7年前、1904年の地図帳には、すでに「ワイナ・ピチュ」というインカの町の遺跡が載っていました。1912年には、土地の持ち主の息子もビンガムに「遺跡の名はワイナ・ピチュだ」と伝えています。最も強い根拠は、16世紀末にスペイン人が書いた記録です。そこには、この地域の先住民が「ワイナ・ピチュ」と呼ぶ場所へ戻って住もうとしていた、と書かれています。
ケチュア語で「マチュ」は古い、「ワイナ」は若い、「ピチュ」は峰を意味します。ワイナ・ピチュは、遺跡のすぐ隣に立つ岩山の名前です。2人は、インカの人々はこの遺跡を、いちばん近い峰と同じワイナ・ピチュと呼んでいた、と結論づけました。
自分で確かめる方法
ここまでの話は、どれも家から確かめられます。言われてきたことと、確かめられたことを並べると次のとおりです。
| 項目 | 言われてきたこと | 研究で分かったこと |
|---|---|---|
| 見つけた人 | ビンガムが「発見」した | 地元の農民が案内し、別の農民が畑を耕していた |
| 造られた年 | 1440〜1450年ごろ | 遅くとも1420年には人が住んでいた |
| 名前 | マチュ・ピチュ | インカ時代はワイナ・ピチュと呼ばれていた可能性が高い |
- 地形を見る:地図アプリの航空写真で、ペルーのマチュ・ピチュを表示します。遺跡が細い尾根の上にあり、すぐ隣に尖った峰(ワイナ・ピチュ)がそびえる位置関係が分かります。
- 年表を並べる:紙に1420年(人骨の測定)、1438年(年代記のパチャクテク即位)、1530年ごろ(住まれなくなる)、1911年(ビンガムの訪問)を書き込みます。年代記の年より前に人が住んでいたことが、目で見て分かります。
- 大学の発表を読む:イェール大学とイリノイ大学シカゴ校は、研究の内容を一般向けの記事で公開しています。下の「参考にした資料」から、英語の原文をたどれます。
- 写真で壁を見る:写真集や航空写真で壁を拡大し、石と石の間に接着剤が見えない空積みであることを確かめます。
現地を訪ねるなら、入場者数の上限にも注意が必要です。1日の上限は2011年から2,500人でしたが、2024年に4,500人へ引き上げられ、繁忙期は最大5,600人です。年間の訪問者は150万人を超えます。遺跡の区画ごとの見どころを順に追うなら、写真の多い本で予習しておくと、現地で迷いにくくなります。
よくある疑問
- ビンガムが持ち帰った出土品は、今どこにありますか?
- 返還が争われていた出土品は、ペルーに戻っています。ビンガムは1912年の調査で、墓地の人骨などをアメリカへ持ち帰りました。返還を巡る争いの末、イェール大学は2010年11月に返還に合意しました。最初の分は2011年に、最後の分は2012年11月にペルーへ届いています。
まとめ
マチュ・ピチュは、地元の人が知り、畑を耕していた場所でした。忘れられていたのは遺跡ではなく、外の世界の記録のほうです。人骨の測定は建設を1420年以前に早め、1904年の地図帳や16世紀の記録は、本来の名前がワイナ・ピチュだった可能性を示しました。
写真で見慣れた場所でも、調べ直せば書き換わることがあります。まずは地図アプリで、尾根の上の遺跡と、隣のワイナ・ピチュの峰を見比べてみてください。
参考にした資料
- イェール大学人類学部 — Dr. Richard Burger's study demonstrates Machu Picchu older than believed
- イリノイ大学シカゴ校 UIC today — Study reconsiders name of Peru's Machu Picchu
- Smithsonian Magazine — Machu Picchu Is Older Than Previously Thought, Radiocarbon Dating Suggests
- Wikipedia — Machu Picchu(標高・建物数・1911年の訪問・入場者の上限・出土品の返還)