日本一高い富士山はなぜ人々に愛されてきたのか
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富士山が特別な山であり続けたのは、高さよりも信仰の歴史によるものです。標高3776メートルの山は、まず噴火で恐れられて神として祀られました。やがて江戸の庶民が、列をなして登る山になります。
2013年の世界遺産登録も、自然遺産ではなく文化遺産です。この記事では噴火の回数から江戸の富士講、いまの登山者数までの数字を手がかりに、富士山と人の関わりをたどります。
数字で見る富士山と信仰
先に、この記事に出てくる数字を並べておきます。どれも、富士山が「眺める山」「祈る山」「登る山」と姿を変えてきた跡を示す数字です。
| 数字 | 何の数か |
|---|---|
| 3,776メートル | 標高。最高地点は火口を囲む峰のひとつ、剣ヶ峰 |
| 約10万年前 | 今の富士山の土台になった古富士火山が生まれた時期 |
| 少なくとも10回 | 8世紀以降に記録が残る噴火の回数 |
| 八百八講・八万人 | 江戸後期の江戸に存在したと伝わる、富士講の数と講員の数 |
| 25件 | 世界文化遺産の構成資産(忍野八海の8か所を含む) |
| 約20万5千人 | 2025年夏の登山者数(環境省が八合目で計測) |
高さの数字は表の1行目だけです。残りの5行は、山の成り立ちと、人がこの山に向けてきた祈りの数字になっています。
約10万年と10回の噴火
富士山は、一度の噴火でできた山ではありません。静岡大学の解説によると、およそ20万〜10万年前に小御岳火山が生まれました。その中腹で約10万年前に古富士火山が活動を始め、およそ1万年前から今の新富士火山が育っています。
古い火山の上に、新しい溶岩と火山灰が何層も積み重なる。山体が崩れても、あとの噴火がその傷を覆い直す。あの整った円すい形は、この繰り返しの結果です。
人がこの山に最初に向けたのは、あこがれより恐れでした。8世紀以降に記録された噴火は、少なくとも10回あります。とくに大きなものが、800年(延暦19年)の延暦噴火と864年(貞観6年)の貞観噴火です。
火を噴く山を前にした人々は、噴火を神のふるまいと受けとめました。富士宮市の解説によると、8世紀後半から富士山を浅間大神として祀り、噴火を鎮めるために山麓に浅間神社が建てられます。この時代の信仰は、山に登らず遠くから拝む遥拝でした。
信仰の芽はもっと古いという見方もあります。富士山の周りでは、富士山を意識して作られたとされる約1万3千〜1万4千年前の住居跡や配石の遺構が見つかっています。
江戸八百八講、講中八万人
噴火がおさまった12世紀ごろから、富士山は登る山に変わります。山岳信仰と仏教が結びついた修験道の道場になり、末代上人という僧が数百回も登って、山頂に大日寺を構えたと伝えられます。
14〜15世紀後半には登山道が開かれ、15〜16世紀には修験者に導かれた一般の人々の信仰登山、いわゆる登拝が盛んになりました。
そのころの様子を描いた絵が残っています。富士山本宮浅間大社が所蔵する国の重要文化財「絹本著色富士曼荼羅図」です。室町時代後期に狩野派が描いたもので、縦186.6センチ、横118.2センチあります。麓の浅間大社や村山浅間神社に参ってから山へ向かう人々が描かれ、山頂には如来や菩薩の姿があります。神と仏をあわせて拝む、当時の信仰の形がよく分かる1枚です。
庶民の信仰として大きく広がったのは江戸時代です。16〜17世紀に修行した長谷川角行が富士講の基礎を築き、その教えを受け継いだ食行身禄が、広がりの決め手になりました。
身禄は江戸で油を売る商人でした。1733年(享保18年)、63歳の身禄は吉田口登山道の七合五勺にある烏帽子岩で断食を始め、約35日後に入定(祈りながら亡くなること)します。その後、娘や弟子たちが教えを広めました。江戸後期には「江戸八百八講、講中八万人」といわれるほど、講が町ごとにできていきます。
講の人々の宿と祈祷を引き受けたのが、登山口の町に住む御師です。国土交通省の観光庁向け解説文によると、北麓の吉田には最も多い時期に80人以上の御師がいました。
身禄の弟子たちとは別に、村上光清のように私財で山麓の浅間神社を修理した指導者もいました。富士宮市の解説によると、18世紀中頃には、民衆がまとまることを警戒した幕府が「富士講禁止令」を出すほどの広がりでした。禁止令はその後もくり返されますが、講は消えずに幕末まで続きます。
年1〜2万人から、年20万人へ
富士講の時代、登れるのは夏の2か月の開山期間だけでした。富士宮市の解説によると、この時代の登山者は年平均1万〜2万人です。いまの登山者数と比べると、富士山の登り方の変わり方が見えてきます。
| 時期 | 登山者数 | 主な出来事 |
|---|---|---|
| 江戸時代(富士講の時代) | 年平均1万〜2万人 | 御師の宿に泊まり、麓から歩いて登る |
| 1964年以降 | 年間約30万人 | 富士スバルライン開通。標高2,300〜2,400メートルの中腹から登るのが主流に |
| 2017年 | 28万4,862人 | 環境省の2016〜2025年の記録で最多 |
| 2025年 | 約20万5,100人 | うち吉田ルートが12万1,068人で約6割 |
変化の節目は明治にあります。明治政府の神仏分離と廃仏毀釈で、山中の仏教施設は姿を消しました。1872年には女人禁制が解かれます。1889年に南麓を東海道線が通り、1900年前後には北麓にも鉄道が届きました。
そして1964年の富士スバルライン、1970年の富士山スカイラインで、車で中腹まで行けるようになります。麓から何日もかけて祈りながら登る山は、半日で頂上を目指す山になりました。
それでも、昔の道筋は消えていません。2025年に最も多くの人が登った吉田ルートは、身禄が入定した烏帽子岩のある吉田口の道です。北麓の御師の町から続いてきた富士講の道が、形を変えて今も一番にぎわっています。
登れない人のために、江戸の人々は富士山を町に作りました。富士山を模して土を盛った富士塚です。最も古いとされるのが、富士講の先達だった植木職人の高田藤四郎が1780年(安永9年)に築いた高田富士で、都内には今も約50か所が残るとされます。下谷坂本や江古田の富士塚は、国の重要有形民俗文化財になっています。
浅間大社や宝永火口を歩きながら、地形と信仰のつながりを確かめる話は、写真と地図の入った本のほうが追いやすい話です。
よくある疑問
- 富士講は今もあるのですか?
- 数は減りましたが残っています。百科事典の記述では、2006年の時点で十数の講が活動しており、それを迎える御師の家も残っていました。北麓の富士吉田市には、御師の住宅だった「旧外川家住宅」が公開されています。
- 美しい山なのに、なぜ自然遺産ではないのですか?
- 評価されたのが、山と人との関わりだからです。登録の決め手は2つの基準で、1つは富士山を拝む・登るという独自の信仰の伝統、もう1つは浮世絵などの芸術作品とのつながりです。そのため構成資産25件には、山頂だけでなく浅間神社や登山道、御師の住宅も入っています。
まとめ
富士山の信仰は、噴火への恐れから始まりました。8世紀後半には浅間大神として祀られ、12世紀ごろから修験者が登り、江戸時代には八百八講といわれる庶民の講が富士山を目指します。年1万〜2万人だった登山者は、いま年20万人を超えています。
最後の噴火は1707年(宝永4年)で、それから300年以上、山は静かです。富士山に登る機会がない人も、近くの富士塚や浅間神社を地図で探してみてください。江戸の人が「町の富士山」に込めた祈りを、歩いて確かめられます。
参考にした資料