雑学

国旗に描かれている建物アンコール・ワットとは

2026年7月公開 · 2026年10月更新 · 読了7分
国旗に描かれている建物アンコール・ワットとは

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アンコール・ワットは、カンボジア北西部に建つ世界最大級の宗教建築です。12世紀前半、クメール王朝の王スーリヤヴァルマン2世が造らせ、今はカンボジアの国旗の中央に描かれています。

ヒンドゥー教の寺院として生まれ、のちに仏教の寺院になり、江戸時代の初めには日本人も参拝に訪れました。この記事では、900年近い寺の歩みを、人物と年を追いながら時代順にたどります。

12世紀:王が造らせた巨大な寺院

クメール人のアンコール王朝は約600年続き、12世紀に最盛期を迎えました。アンコール・ワットは、その時代の王スーリヤヴァルマン2世の治世(1113年〜1150年ごろ)に建てられました。ヒンドゥー教の神ヴィシュヌにささげられた寺院です。

規模は桁外れです。敷地は162.6ヘクタールで、幅190メートルの水堀に囲まれ、堀の一周は5キロを超えます。外壁は1,024メートル×802メートルの長方形で高さ4.5メートル、中央の塔は高さ65メートル。ヒンドゥー教の聖なる山、メール山を表しています。

使われた砂岩のブロックは500万〜1,000万個で、重いものは1個1.5トンほどあります。石は北東へ約40キロ離れたクーレン山から切り出されました。2011年には、早稲田大学の内田悦生さんと下田一太さんの研究で、クーレン山とアンコール・ワットを結ぶ全長35キロの運河の跡が見つかっています。石は水路で運ばれたとみられます。

クメールの寺院の多くは東を向いていますが、アンコール・ワットの正面は西向きです。理由には2つの説があります。1つは王の墓を兼ねていたため、もう1つは西と結びつくヴィシュヌ神に捧げたためという説で、決着はついていません。春分と秋分の日には、西の参道から見ると、朝日が中央の塔の真上に昇ります。

13〜15世紀:周達観が見た都と、仏教への移り変わり

1296年8月、元の皇帝の使節団の一員として中国の周達観(しゅうたつかん)がアンコールに着きました。約11か月滞在した周達観は、都の門や堀、市場や暮らしの様子を『真臘風土記(しんろうふどき)』に書き残しています。王インドラヴァルマン3世が象に乗って進む行列の様子も、この本で知ることができます。この本には、アンコール・ワットやバイヨンといった寺院も登場します。

このころから、アンコール・ワットは仏教(上座部仏教)の寺院として使われるようになり、仏像が加えられていきます。1431年、クメール王国はタイのアユタヤ朝に攻め落とされました。アンコールの寺院の多くは森に埋もれていきますが、アンコール・ワットだけは完全に捨てられたことがありません。信仰の場として、人が通い続けたからです。

16〜17世紀:日本人が祇園精舎と信じた寺

1586年には、ポルトガルのカプチン会の修道士アントニオ・ダ・マダレーナがこの地を訪れ、ヨーロッパ人として早い時期の記録を残しました。

同じころ、日本人もアンコール・ワットへ渡っています。岩手県立図書館のレファレンス事例によると、寛永9年(1632年)に熊本藩の重臣の息子が、十字回廊の柱に墨で文字を書き残しました。加藤清正に仕えた森本儀太夫の子、右近太夫一房(うこんだゆうかずふさ)です。父の供養のため、仏像4体を奉納したという内容です。

当時の日本人は、この寺を、釈迦ゆかりのインドの祇園精舎の跡だと勘違いしていたといわれます。鎖国が本格的に始まる直前の時代に、仏教の聖地を目指して海を渡った人がいたわけです。墨書は5分の4ほどが肉眼で読めない状態ですが、今も柱に残っています。岩手県立図書館の調べでは、日本人による墨書は一房のものを含めて14か所見つかったものの、今はほとんど失われているようです。

19〜20世紀:西洋への紹介と、修復の100年

1860年、フランスの博物学者アンリ・ムオがアンコールを訪れました。その旅行記が広く読まれ、アンコール・ワットは西洋で一気に知られるようになります。カンボジアはその後フランスの保護国となり、1908年にはフランス極東学院が遺跡の保存組織「アンコール保存局」を作りました。

修復は、内戦で止まります。1975年、クメール・ルージュの時代に保存局は解散しました。遺跡の保護が再び動き出したのは1992年です。アンコールの遺跡群はこの年にユネスコの世界遺産に登録されました。評価は「クメール美術のすべてを伝えていて、議論の余地のないほどの傑作」というものです。ただし内戦で傷んでいたため、同時に「危機にさらされている世界遺産」にも加えられています。1994年には日本政府のアンコール遺跡救済チーム(JSA)が結成され、早稲田大学の中川武教授が団長として20年以上にわたり修復を率いてきました。

石の運び方や、周達観が見た都の暮らしは、図や写真と一緒に読むと分かりやすい話です。アンコール王朝600年の興亡や、日本人参拝者の足跡を詳しく知りたいなら、専門家の書いた本が役に立ちます。

アンコール・ワットの年表(英語版ウィキペディア、岩手県立図書館などの資料をもとに作成)
年できごと
1113年〜1150年ごろスーリヤヴァルマン2世の治世に建設
1296〜1297年周達観がアンコールに滞在し、『真臘風土記』を書く
13世紀末ごろ仏教寺院として使われ始める
1431年クメール王国がアユタヤ朝に攻め落とされる
1632年森本右近太夫一房が十字回廊の柱に墨書を残す
1860年アンリ・ムオが訪れ、西洋で知られるようになる
1908年フランス極東学院がアンコール保存局を作る
1992年世界遺産と危機遺産に同時に登録
1993年王政の復活とともに、今の国旗が復活

国旗の上のアンコール・ワット

今のカンボジア国旗は、青・赤・青の3本の帯の中央に、白いアンコール・ワットを置いた図案です。実際の塔は5本ですが、今の国旗には3本の塔が描かれています。

旗の資料サイト「世界の旗(FOTW)」によると、寺を描いた最初の旗は、フランス保護国時代の1863年ごろにさかのぼります。今の図案は1948年に採用されました。縦横の比は法律では16対25ですが、2対3で作られることが多い旗です。

政権が変わるたびに国旗も変わりましたが、アンコール・ワットはほとんどの旗に残りました。1970年からのクメール共和国の旗では、左上の赤い部分に白い寺が置かれました。1976年からの民主カンプチア(クメール・ルージュ政権)の旗は赤地に黄色い3本塔、1979年からのカンプチア人民共和国の旗は5本塔です。1993年6月、王政の復活とともに1948年の旗が戻りました。

「建物が描かれた世界で唯一の国旗」と紹介される場合もありますが、正確ではありません。英語版ウィキペディアは、建物を描いた国旗をカンボジア・ポルトガル・サンマリノ・スペインの4つとしています。ほかの3か国は紋章の中の城や塔で、実在する1つの寺を旗の主役に置いた例は、カンボジアのほかにありません。

900年、立ち続ける寺

ヒンドゥー教の寺として建ったアンコール・ワットは、やがて仏教の寺になりました。日本人には祇園精舎と信じられ、内戦をくぐり抜けて国旗にも戻ってきました。信仰の形も国の名前も変わりましたが、5本の塔は同じ場所に立ち続けています。

カンボジアの国旗を見かけたら、中央の塔を数えてみてください。描かれているのは3本、本物は5本です。そして、その十字回廊の柱には、400年近く前の日本人の墨の跡が残っています。

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