なぜ「円」というの?日本のお金の名前の由来
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円という名前の由来は、実ははっきりしていません。財務省は、円が通貨の単位に選ばれた理由を裏づける資料が残っていないため、正確にはわからないと説明しています。
硬貨が丸いから円になった、という話は有名ですが、それは並び立つ説のうちの一つです。江戸の終わりから明治の初めまで、円が生まれるまでの数年間を、人物と年を追ってたどります。
江戸の「両・分・朱」は4つ割りの単位
円が生まれる前、日本のお金は金・銀・銭の3種類が並んで使われていました。貨幣博物館は、これを「三貨制度」と呼んでいます。単位も金貨は両・分・朱、銀は匁、銭は文と別々でした。
金貨の単位は、1両が4分、1分が4朱という4つ割りです。1両の8分の3を出すには、分と朱を組み合わせて考える必要がありました。しかも三貨の交換には幕府が決めた相場があったものの、実際にはその時々の相場で取り引きされていました。
幕末に港が開かれると、外国の銀貨が大量に入ってきます。中国で「銀圓」と呼ばれていたメキシコドル銀貨です。丸い銀貨を「圓(円)」と呼ぶ習慣も、この時期に日本へ伝わったとされます。
1868年、香港から造幣機械を買う
明治政府は1868年(慶応4年)、西洋式の造幣工場を大阪に建てると決めます。造幣局によると、機械は閉鎖状態にあったイギリスの香港造幣局から買い入れることになりました。五代友厚らが動き、英国商人グラバーとのあいだで、機械一式を6万両で買う契約が結ばれます。
この香港造幣局が作っていたのが、「一圓」と刻まれた銀貨です。円の由来の三つ目の説は、機械を譲り受けた縁で、この名前をそのまま使ったというものです。
創業当時の設備は、圧印機8台・圧延機8台・金を溶かすコークス炉6基など。動力は20馬力の蒸気機関2基でした。工場は1870年にほぼ完成し、1871年4月4日(明治4年2月15日)に創業式が開かれます。三条実美ら政府の高官や各国の公使など、約100人が列席しました。日本銀行の年表によると、新貨条例が布告されるのはその2か月ほど後、1871年6月です。
1869年、大隈重信の「丸いお金」
新しい貨幣の形と単位を議論の場に持ち込んだのが、大隈重信です。早稲田大学の早稲田ウィークリーによると、大隈は1869年に会計官(のちの大蔵省)の仕事を兼ねることになりました。そして久世治作とともに、従来の四角い貨幣をやめて円形にする案を出します。
反対する議官に、大隈は「円形であれば、親指と人さし指で円を作れば幼児でも貨幣であることが分かる」と説いたと伝えられます。摩耗が少ない点も理由に挙げました。久世は、両・分・朱をやめて世界で使われている十進法にすべきだと主張し、議官たちも納得しました。
指で丸を作る話は、「円」の名付けの理由として語られることがあります。しかし早稲田ウィークリーが伝えているのは、貨幣の形を円形にする理由としての話です。名前の由来を示す記録ではありません。
同じ記事によると、大隈らは外国の公使たちに新しい貨幣を作ると宣言しました。正式な記録で「圓」という名前が初めて使われたのは、このときです。ただし、なぜこの字にしたのかまでは残っていません。
1871年、新貨条例で「円・銭・厘」が始まる
1871年(明治4年)、新貨条例が定められました。基本の単位を円とし、1円の100分の1を銭、銭の10分の1を厘とする十進法です。貨幣博物館によると、金1.5グラムを1円とする新しい貨幣が発行されました。造幣局は、金貨5種・銀貨4種・銅貨4種を作っています。
古いお金は、種類ごとに決めた値段で新しいお金と取り替えられました。同じ1両の小判でも、金の量によって円での値打ちが違います。貨幣博物館の展示図録が挙げる例です。
- 慶長小判(金84%・18グラム)1両 → 10円6銭
- 元禄小判(金66%・13グラム)1両 → 5円76銭
- 天保小判(金57%・11グラム)1両 → 4円37銭
- 安政小判(金57%・9グラム)1両 → 3円51銭
江戸時代に何度も作り直された小判の質の差が、円の数字にそのまま表れています。「1両は1円」と一言では言えないのは、このためです。
回収されたのは小判だけではありません。幕府の金貨・銀貨・銭や各藩の藩札、明治政府が先に出した紙幣も集められ、円のお金と取り替えられました。一方で小さな額のお金は足りなかったため、江戸時代の銅銭は、新しい単位に読み替えてそのまま使い続けられました。
こうして円は生まれましたが、新貨条例には「円」とあるだけで、なぜこの字を選んだのかは書かれていません。財務省が「正確な理由はわからない」とするのは、この空白のためです。
1872年からYEN、そして今の法律へ
円は、1872年の政府紙幣「明治通宝」から、ローマ字でENではなくYENと書かれてきました。1885年に発行が始まった日本銀行券も、ずっとYENです。日本銀行によると、この理由もはっきりせず、説は三つあります。
一つ目は、ENでは外国人の発音が「イン」に近くなるため、Yを足したという説です。幕末の外国人は江戸をYEDOと書いていました。二つ目は、オランダ語で「〜と」、スペイン語やフランス語で「〜の中に」を意味するENを避けたという説。三つ目は、中国の紙幣にあったYUANが変化したという説です。
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1868年 | 香港造幣局の機械一式を6万両で買う契約 |
| 1869年 | 大隈重信・久世治作が円形の貨幣と十進法を提案 |
| 1871年 | 4月に大阪の造幣工場が創業。新貨条例で円・銭・厘を定める |
| 1872年 | 明治通宝にYENの表記 |
| 1885年 | 日本銀行券の発行が始まる |
| 1953年 | 1円未満の紙幣と硬貨が12月31日限りで使えなくなる |
| 1988年 | 「通貨の単位及び貨幣の発行等に関する法律」が施行 |
いま円を通貨の単位と定めているのは、新貨条例ではありません。財務省によると、1988年に施行された「通貨の単位及び貨幣の発行等に関する法律」の第2条第1項が、通貨の額面価格の単位を円としています。銭と厘も、利息や為替の計算の単位として今も使われています。
円の中身も、この間に変わりました。新貨条例では金1.5グラムが1円でしたが、日本銀行券と金との交換は1931年に止まり、1942年には金に縛られない管理通貨制度に移ります。名前は1871年のまま、円を支える仕組みは入れ替わってきたのです。
由来がいまも決まらない理由
まとめると、貨幣博物館が挙げる円の由来は次の三つです。貨幣の形をすべて円形にそろえたから。中国で西洋の丸い銀貨を「銀円」「洋円」と呼び、それが幕末の日本に伝わり、金の単位の両を円と呼ぶ例があったから。香港造幣局の機械を譲り受け、香港銀貨の「一円」の名前を採ったから。
三つとも、1868年から1871年の数年に起きた出来事とつながっています。決め手がないのは、当時の担当者が字を選んだ理由を書き残した文書が見つかっていないからです。当たり前に使う言葉ほど、生まれた瞬間の理由は書き残されにくいものです。
小判から円へ、そして紙幣へと移るお金の形の変化は、文章だけより写真や図で追うほうが分かりやすい話です。次に1円玉を手にしたら、その丸い形は答えではなく、有力な手がかりの一つだと思い出してみてください。
参考にした資料