エッフェル塔は解体予定だった?取り壊しを免れた意外な理由
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エッフェル塔は、1909年の末で取り壊される予定でした。設計者のギュスターヴ・エッフェルが持っていた使用権は20年限りで、期限が来れば土地をパリ市に返す約束だったからです。
塔を救ったのは観光客ではなく、無線通信という新しい技術でした。エッフェル本人が塔を科学の実験室として貸し出し、軍の無線局として欠かせない存在にしたのです。計画から現在まで、年を追ってたどります。
1884〜1887年 「無用の怪物」と呼ばれた計画
高い鉄の塔を最初に思いついたのは、エッフェルの会社の技師モーリス・ケクランとエミール・ヌーギエです。1884年6月のことでした。2人は4本の柱が上で1つにまとまる、大きな鉄塔の形を考えます。同じ年の9月18日、エッフェルは高さ300メートルを超える鉄塔の構造で特許を取りました。
舞台になったのは、フランス革命100周年を記念する1889年のパリ万国博覧会です。シャン・ド・マルスに高さ300メートルの鉄塔を建てる案を募ったところ、107の応募が集まり、エッフェルたちの案が選ばれました。
ところが、建つ前から強い反対がありました。1887年2月14日、新聞ル・タンに「エッフェル氏の塔に抗議する」という文が載ります。署名したのは作家のモーパッサンやデュマ・フィス、作曲家のグノーらです。オペラ座を設計した建築家シャルル・ガルニエも名を連ねました。抗議文は塔を「無用で醜悪なエッフェル塔」と呼び、この塔の影が20年にわたってパリを覆うと嘆きました。
エッフェルは同じ新聞で反論しています。塔の4本の稜線の曲がり方は、風に耐えるよう計算したものです。強さの条件は美しさとも調和する、というのがエッフェルの主張でした。
1887〜1889年 20年限りの約束で建った
塔の運命を決めたのは、1887年1月8日に結ばれた契約です。エッフェルは会社ではなく個人として契約し、建設費として150万フランを受け取りました。見積もられた総工費約650万フランの4分の1にも届かない額です。足りない分を自分で用意する代わりに、万博の期間とその後20年間、塔の営業収入をすべて得る権利を手にしました。
裏を返せば、20年たてば塔はパリ市のものになります。市が要らないと判断すれば、解体されて鉄くずになる。その期限が1909年12月31日でした。
工事は1887年1月26日に始まり、1889年3月31日に完成します。かかった期間は2年2か月5日。1万8038個の鉄の部品を約250万本のリベットで留め、鉄骨だけで7300トンありました。当時の道具を考えれば、記録的な速さです。
1889年5月15日に一般公開が始まると、塔は万博いちばんの呼び物になりました。会期の終わりまでに、約190万人が塔に上っています。人気が出ると、多くの批判は静まっていきました。それでも、20年後の期限は契約に残ったままです。
1889〜1909年 エッフェルは塔を実験室にした
そこでエッフェルは、塔を科学の道具として役立てる道を選びます。公開の翌日には、最上部の3階で気象観測を始めました。風速や気圧を測り、のちに気温図や天気図を自分の費用で出版しています。
1903年には、2階から張った115メートルのケーブルに沿って物を落とし、空気の抵抗を調べる実験を始めました。落ちる物は時速144キロに達したといいます。1909年には塔のふもとに風洞を作り、飛行機の翼やプロペラの模型を風に当てて性能を測りました。風洞はのちにパリ西部のオートゥイユへ移り、1912年に大きな施設として完成しています。
高さ300メートルの建物は、当時ほかにありません。高い所の空気を測る、長い距離を落とす、という実験には打ってつけの場所でした。とはいえ気象や空気力学だけでは、塔を残す決め手にはなりませんでした。
1898〜1910年 無線が塔を救った
決め手になったのは無線です。1898年11月5日、発明家のウジェーヌ・デュクレテが、塔と約4キロ離れたパンテオンとの間で無線電信に成功しました。高い塔は、アンテナを張る場所として理想的だったのです。
1903年、陸軍の技術将校ギュスターヴ・フェリエ大尉が、塔を軍の無線に使う案をエッフェルに持ちかけます。エッフェルは塔を提供し、同じ年の12月15日には4万フランの費用負担を引き受けました。翌1904年、フェリエは約400キロ離れたフランス東部との交信に成功します。1908年には、電波が約6000キロ先まで届くことが分かりました。
1909年7月17日、塔の頂上に無線の業務を置く計画が議会で可決されます。解体の期限まで、残り半年もない時期でした。そして1910年1月1日から、エッフェルの使用権は70年延長されます。塔は解体候補から、国の通信に欠かせない設備へと立場を変えたのです。
同じ1910年の5月23日には、塔から初めての公式な時報が電波で送られました。船や遠くの観測所は、この電波で時計を合わせられるようになります。
1910年以降 延長のあとも続いた危機
無線の価値は、すぐに戦争で示されました。1914年9月、塔の無線局はドイツ軍の通信を傍受します。この情報が、フランス軍がドイツ軍の進撃を止めたマルヌの会戦での反撃に生かされました。
平和な時代にも、塔は「解体」と縁が切れませんでした。1925年、詐欺師のヴィクトル・ルスティグが、塔を鉄くずとして業者に「売る」詐欺を働いています。同じ1925年には、塔から一般向けのラジオ番組が初めて送り出されました。
本当に壊されかけたのは、第二次世界大戦の末期です。1944年8月、連合軍がパリに迫ると、ヒトラーはパリの司令官コルティッツに塔を含む街の破壊を命じました。コルティッツはこの命令に従いませんでした。
1957年にはテレビのアンテナが付き、塔はさらに高くなります。2022年3月15日にはデジタルラジオのアンテナが取り付けられ、高さは330メートルになりました。1930年にニューヨークのクライスラービルに抜かれるまで、41年間にわたり世界一高い建造物でもありました。塔が建った時代のパリの街の様子や流行まで知りたいなら、19世紀末のパリを描いた本のほうが詳しく書いています。
年表で見る、塔が残るまで
| 年 | できごと |
|---|---|
| 1884年 | ケクランとヌーギエが高い鉄塔を発案 |
| 1887年1月 | 20年間の営業権つきの契約。工事が始まる |
| 1887年2月 | 芸術家らが新聞に抗議文を発表 |
| 1889年 | 3月に完成、5月に一般公開。万博で約190万人が上る |
| 1898年 | デュクレテがパンテオンとの無線電信に成功 |
| 1903〜1904年 | フェリエ大尉が軍の無線を始め、約400km先と交信 |
| 1909年 | ふもとに風洞。議会が塔の無線の計画を可決 |
| 1910年 | 使用権が70年延長。初の公式な時報を送る |
| 1914年 | 無線局の傍受がマルヌの会戦に生かされる |
| 1944年 | ヒトラーの破壊命令を、司令官が実行せず |
| 2022年 | 新しいアンテナで高さ330mに |
表を上から読むと、塔が残った理由は1つの出来事ではないと分かります。抗議を受けても建て、科学に場所を貸し、軍の通信を引き受けた。その積み重ねが、1910年の延長につながりました。
塔はいまも約7年ごとに、約60トンの塗料で塗り替えられています。次にエッフェル塔の写真を見たら、先端のアンテナを探してみてください。解体を免れた理由が、いまもそこに立っています。
参考にした資料
- エッフェル塔公式サイト — How radio saved the Eiffel Tower from destruction
- エッフェル塔公式サイト — The Eiffel Tower Laboratory
- Science News Explores — How science saved the Eiffel Tower
- エッフェル塔公式サイト — Origins and Construction of the Eiffel Tower
- エッフェル塔公式サイト — The Eiffel Tower facts, height & weight
- フランス天文協会(SAF) — La Tour Eiffel et le temps
- gustaveeiffel.com — Eiffel Aerodynamics Laboratory
- French Moments — How the Eiffel Tower was saved
- Wikipedia(英語版) — Eiffel Tower