科学

危険な爆薬を安全に運ぶ工夫が、ノーベル賞を生んだ?

2026年7月公開 · 2026年10月更新 · 読了7分
危険な爆薬を安全に運ぶ工夫が、ノーベル賞を生んだ?

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ダイナマイトは、揺れただけで爆発しかねない液体の爆薬ニトログリセリンを、安全に運んで使うために生まれました。スウェーデンのアルフレッド・ノーベルが、この液体を珪藻土にしみ込ませて固め、1867年に特許を取りました。

その発明で築いた財産の94%が、遺言によってノーベル賞の元手になります。この記事では、ノーベルの一生を年を追ってたどり、危険な液体がどうやって世界的な賞に変わったのかを見ていきます。

1833〜1863年:ロシアで育ち、パリで液体の爆薬に出会う

まず、おもな出来事を年表で並べます。

アルフレッド・ノーベルとダイナマイトの年表(ノーベル財団・Science History Institute などの資料をもとに作成)
年出来事
1833年10月21日、ストックホルムで生まれる
1842年一家で父のいるロシアのサンクトペテルブルクへ移る
1847年イタリアの化学者ソブレロがニトログリセリンを作る
1863年一家がスウェーデンに戻る。ノーベルが起爆装置を発明
1864年9月3日、ストックホルムの工場が爆発し、弟エミールら5人が死亡
1865年雷管を考案する
1867年ダイナマイトの特許を取る
1875年より強力なブラスティングゼラチンを発明
1895年11月27日、パリで最後の遺言に署名
1896年12月10日、イタリアのサンレモで死去
1901年第1回ノーベル賞の授賞

アルフレッド・ノーベルは1833年、ストックホルムで生まれました。父イマヌエルは技術者で発明家です。橋や建物を造り、岩を爆破するさまざまな方法を試していました。父はロシアで機械工場を開いて成功し、1842年に家族をサンクトペテルブルクへ呼び寄せます。工場はロシア軍に機雷などを納めていました。

アルフレッドは家庭教師について化学や語学を学び、17歳でスウェーデン語・ロシア語・フランス語・英語・ドイツ語を読み書きできたといいます。父は、詩に夢中になる息子を化学技術者にしようと、外国へ勉強に出しました。

パリでは、化学者テオフィル・ペルーズの研究室に入ります。そこで出会ったのが、イタリアの化学者アスカニオ・ソブレロでした。ソブレロは数年前に、ニトログリセリンという液体の爆薬を作っていました。威力は大きいものの、危なすぎて実用にならないと考えられていた物質です。アルフレッドは、これを工事に使えないかと考え始めます。

1864年:弟を失った爆発

クリミア戦争が終わると父の事業は傾き、一家は1863年にスウェーデンへ戻りました。アルフレッドは、ニトログリセリンを爆薬として売り出す研究に打ち込みます。

翌1864年9月3日、ストックホルムのヘレネボリにあった工場の作業小屋が爆発しました。弟のエミールを含む5人が亡くなっています。市は、市内でのニトログリセリンの実験を禁じました。

ノーベルはあきらめませんでした。実験の場を、メーラレン湖に浮かべた平底の船へ移します。同じ1864年には大量生産を始め、そのかたわらで、液体をより安全に扱える混ぜ物を探し続けました。

この時期、爆薬を「狙ったときにだけ」爆発させる工夫も進めています。1863年に起爆装置を発明し、1865年には雷管を考案しました。雷管は、少量の敏感な薬を詰めた小さな筒です。まずこれを爆発させ、その衝撃で本体の爆薬に火を付けます。

1866〜1867年:珪藻土で固めた「ダイナマイト」

答えは、キーゼルグールと呼ばれる細かい土でした。珪藻という小さな藻の殻が積もってできた土で、日本語では珪藻土といいます。ニトログリセリンをこの土に吸わせると、液体が粘土のような練り物に変わりました。棒の形に整えられるので、岩に開けた穴へそのまま差し込めます。

ノーベル財団によると、発明は1866年で、翌1867年に特許を取りました。特許の文面では「ノーベルの安全火薬」という呼び方も使っています。最終的な名前は、ギリシャ語で力を意味する言葉から取ったダイナマイトです。同じ1867年には、イギリス・サリー州レッドヒルの石切り場で公開実験を行いました。

ダイナマイトの強みは、ふだんは鈍く、雷管を使ったときだけ確実に爆発する点にあります。液体のニトログリセリンは、運ぶ途中の揺れで爆発する危険がありました。土に吸わせて動かなくし、起爆は雷管に任せる。この2段構えで、強力な爆薬が工事現場の道具になりました。

時期にも恵まれました。ちょうどダイヤモンドを使った掘削機や、空気の力で動くドリルが広まり始めたころです。ノーベル財団は、これらが合わさってトンネルの掘削や岩の爆破、橋の建設の費用を大きく下げたと説明しています。

1868〜1894年:20か国を飛び回る発明家

ダイナマイトと雷管は、建設業界で引っ張りだこになりました。ノーベルは90か所に工場を建て、20を超える国を行き来します。住まいはパリでしたが、「ヨーロッパでいちばん金持ちの放浪者」と呼ばれたほどです。

発明も続けました。1875年にはニトロセルロースを溶かし込んだブラスティングゼラチンを、1887年には煙の少ない火薬バリスタイトを生み出します。合成ゴムや人工の絹の研究も手がけ、生涯に取った特許は355件にのぼりました。1894年には、のちに大砲などの大手メーカーとなる製鉄会社ボフォースを手に入れています。

一方で、爆薬は戦争にも使われました。HISTORYによると、ダイナマイトの登場から3年後の1871年には、普仏戦争で両軍がダイナマイトを使っています。工事の安全のために生まれた発明は、人を傷つける道具にもなりました。

1895〜1901年:遺言と、賞の始まり

1895年11月27日、ノーベルはパリのスウェーデン・ノルウェー・クラブで最後の遺言に署名しました。財産の94%、3122万5000スウェーデン・クローナを基金にし、その利子で賞を贈るよう定めています。対象は物理学・化学・生理学医学・文学・平和の5分野。人類のために最も大きな貢献をした人に贈る、という内容です。

ノーベルは1896年12月10日、イタリアのサンレモで亡くなりました。遺言には親族が反対し、各国の当局も疑問を挟みます。遺言執行者がすべての関係者を説得するのに4年かかり、1901年にようやく第1回の授賞が行われました。物理学・化学・生理学医学・文学の4賞はストックホルムで、平和賞はノルウェーのクリスチャニア(今のオスロ)で贈られています。

平和賞が入った理由としては、オーストリアのベルタ・フォン・ズットナーとの交友がよく挙げられます。ノーベルの秘書を短い間務めた人で、のちに平和運動に力を注ぎ、小説『武器を捨てよ』を書きました。2人は生涯、手紙のやりとりを続けています。

賞が生まれた発端としては、1888年の誤報の話もよく語られます。兄ルドヴィグの死をアルフレッドの死と取り違えたフランスの新聞が、「死の商人」と書いたという筋書きです。ただしHISTORYによると、その記事の原本は見つかっていません。歴史家の中には作り話とみる人もいます。一方でノーベル財団は、1868年にスウェーデン王立科学アカデミーから受けた賞が科学の賞を思い立つきっかけだった可能性を挙げています。

ノーベルの人柄や、兄弟とともに歩んだ事業の広がりは、この記事の年表だけでは追い切れません。子どもと一緒に一生を通して読むなら、伝記の学習漫画が入り口になります。

いま残っているもの

危ない液体を土にしみ込ませる工夫が、工事の景色を変えました。その発明で得た財産が、1901年から125年続く賞の元手になっています。ストックホルムの授賞式は今も毎年12月10日、ノーベルが亡くなった日に開かれています。

ニュースでノーベル賞の名前を見かけたら、1864年の爆発と、珪藻土の細かい穴のことも思い出してみてください。賞の裏には、安全を求めて実験を続けた1人の発明家の30年あまりがあります。

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