自然

トルコに立ち並ぶきのこ形の岩、その正体とは何か

2026年7月公開 · 2026年10月更新 · 読了7分
トルコに立ち並ぶきのこ形の岩、その正体とは何か

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トルコのカッパドキアに立つきのこ形の岩は、火山灰が固まった柔らかい岩が、雨と風に削られて残ったものです。頭にのった硬い岩がかさの役目をして、真下の柱だけを守っています。

同じ柔らかさが、人の歴史も決めました。岩は掘りやすく、修道士は教会を彫り、村人は地下に町を広げました。900万年前の噴火から世界遺産の登録まで、時代順にたどります。

900万〜300万年前 火山が材料を積み上げる

カッパドキアはトルコ中部、首都アンカラの南東に広がる高原です。頭に大きな岩をのせた塔が谷に立ち並び、トルコ語では「ペリバジャ(妖精の煙突)」と呼ばれます。

材料を運んだのは火山でした。噴火を繰り返したのは、エルジエス山(標高3,916メートル)とハサン山、ギョッリュ山です。時期はおよそ900万年前から300万年前にかけてでした。降り積もった火山灰は固まって凝灰岩になりました。その上を、高温の火砕流が固まった溶結凝灰岩や溶岩が覆います。

こうして地面には、柔らかい層と硬い層が交互に重なりました。この重なり方が、のちの形を決めます。

岩は硬さによって削られる速さが違います。上にのった硬い岩が雨を受け止め、真下の柔らかい凝灰岩だけを守る。周りは削れて低くなり、かさをかぶった柱だけが取り残されます。これを差別侵食と呼びます。

柱の本体は硬い岩ではありません。かさに守られた、柔らかい岩のままです。

この地層は学術的にも評価が高く、2022年には国際地質科学連合(IUGS)が選んだ「世界の地質遺産100」のひとつに入りました。

紀元前6世紀〜紀元17年 ペルシアの碑文に名が残る

地名の記録は古代ペルシアにさかのぼります。紀元前6世紀の末、ダレイオス1世やクセルクセス1世が刻ませた三つの言語の碑文に、この地が「カトパトゥカ」の名で現れます。語源ははっきりせず、ヒッタイト語で「下の土地」を意味する言葉から来たという説が有力です。

さらに前の青銅器時代の末には、一帯はヒッタイト王国の本拠地でした。ペルシアのダレイオス1世は、この地を帝国の第3の州に組み込みました。その支配が終わると、アレクサンドロス大王の死後に旧総督アリアラテス1世が王を名乗り、カッパドキア王国が生まれます。

王国は周りの大国に挟まれて揺れ続けました。最後は紀元17年、ローマ皇帝ティベリウスが王をローマに呼びつけ、属州に組み入れます。

4世紀〜11世紀 修道士が岩に教会を彫る

キリスト教は遅くとも3世紀には根づいていました。4世紀になると、この土地から教会史に名を残す3人が出ます。カエサレア(いまのカイセリ)の主教になったバシレイオス(330〜379年)、その弟のニュッサのグレゴリオス、友人のナジアンゾスのグレゴリオスです。3人は「カッパドキア三教父」と呼ばれます。381年のコンスタンティノープル公会議で固まった「三位一体」の考え方は、彼らの議論が下地になりました。

岩の谷は、修道生活に向いていました。凝灰岩は鉄の道具で掘りやすく、掘った面は空気に触れるとほどよく締まります。谷の中心ギョレメは、およそ300年から1200年ごろまで修道の拠点でした。

451年のカルケドン公会議の記録には、ギョレメの前身にあたる村の名が見えます。6世紀に書かれた聖人伝には、村人が洞窟の家に住む様子が出てきます。これが「岩に住む暮らし」を伝える最初の文字記録です。

素朴な岩窟教会は6〜7世紀のものが多く、色鮮やかなフレスコ画の多くは10〜11世紀に描かれました。ギョレメ屋外博物館には、岩をくり抜いた教会と礼拝堂が30以上集まっています。中でも「カランルク(暗い)教会」は、壁画がもっとも見事な教会のひとつに数えられます。

7世紀〜20世紀 地下へ逃げる町

7世紀の半ば、アラブの軍勢が小アジアに入ると、カッパドキアは国境の最前線になりました。襲撃のたびに逃げ込める場所として、人々は地面の下へ町を掘り広げます。

最大級のデリンクユは、深さおよそ85メートルあります。家畜や食料ごと、最大で2万人ほどが身を隠せたと考えられています。通路の要所には大きな石の円盤が置かれ、内側から転がして入口をふさげました。階ごとに閉じられる造りです。

最初の部屋を掘ったのは、紀元前8〜7世紀のフリギア人だとする見方があります。町として完成したのはビザンツ時代です。

1071年のマラズギルトの戦いのあと、トルコ系のセルジューク朝の人々が移り住み、やがてオスマン帝国の領土になりました。18世紀のはじめには、近くにネヴシェヒルの町が地方の中心として築かれています。キリスト教徒の村人はその後も長く暮らし続けます。1923年、ギリシャとトルコの住民交換で彼らは土地を離れました。デリンクユの地下都市も、このあと使われなくなります。

1830年代〜1985年 旅人が見つけ、世界遺産になる

ヨーロッパに景色を伝えたのは、フランスの考古学者シャルル・テクシエです。1830年代に旅の記録と絵を残しました。1837年にはイギリスのウィリアム・ハミルトンが、谷の礼拝堂を本に書いています。

忘れられていた地下都市は、1963年に偶然見つかりました。デリンクユの住民が家を直していて地下の壁を壊したところ、奥に隠し部屋が現れたのです。掘り進めると、何層にも続く通路につながっていました。

ギョレメは1970年代まで、訪れる人の少ない村でした。1985年、「ギョレメ国立公園とカッパドキアの岩窟群」がユネスコの世界遺産に登録されます。自然と文化の両方の価値で選ばれた複合遺産です。2000年ごろには、ギョレメはカッパドキア観光の中心地になっていました。古い洞窟の家の多くは、いまホテルとして使われています。

カッパドキアの年表
年代できごと
約900万〜300万年前エルジエス山などが噴火し、凝灰岩の地層ができる
紀元前8〜7世紀フリギア人が最初の地下の部屋を掘ったとされる
紀元前6世紀末ペルシアの碑文に「カトパトゥカ」の名
紀元17年ティベリウスがローマの属州にする
4世紀カッパドキア三教父が活躍する
451年カルケドン公会議の記録にギョレメの前身の村
7世紀半ばアラブの侵攻。地下都市が避難所になる
10〜11世紀岩窟教会のフレスコ画の多くが描かれる
1071年マラズギルトの戦い。セルジューク朝の時代へ
1923年住民交換でキリスト教徒の住民が去る
1963年デリンクユの地下都市が再発見される
1985年ユネスコの世界遺産(複合遺産)に登録

いまも削られ続ける岩

きのこ岩は完成品ではなく、途中の姿です。削られる速さは実際に測られています。研究チームが岩の中の塩素36という原子を手がかりに調べました(2015年、地形学の専門誌Geomorphology)。

1年に直せば0.05ミリ以下で、人が一生見ていても変化に気づけません。それでも頭の部分の速さなら、100万年で30メートルを超えます。あの景色は、その積み重ねです。

首が細くなりすぎたり頭の岩が落ちたりすると、守りを失った柱は一気に削られて消えていきます。パシャバー地区では、落石の危険を調べる調査も行われています。

現地を訪ねたら、黒っぽい板を頭にのせた柱と、それを失って崩れかけた柱を見比べてみてください。その差がそのまま、900万年続くこの土地の仕組みを見せてくれます。

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